ライト(読み)らいと(英語表記)Frances Wright

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト(Frank Lloyd Wright)
らいと
Frank Lloyd Wright
(1867―1959)

アメリカの建築家で、20世紀のもっとも重要な建築家の1人。6月8日ウィスコンシン州リッチモンドセンターに生まれる(生年については1869年説もある)。同州立大学土木学科を卒業後、1887年シカゴに出てルイス・サリバンの建築事務所に入り、多くを学んだ。93年に独立して住宅建築を中心に設計活動を開始、やがて初期の注目すべき作品、プレーリー(草原)・ハウス・シリーズを発表していく。ハートレー邸(1902)、マーチン邸(1904)、クーンレイ邸(1908)、ロビー邸(1909~10)などであり、ここでは日本建築に関心が示される一方で、水平面に延びる線、空間の流動性、緩い勾配(こうばい)の屋根と深い庇(ひさし)がもたらす陰影など、大地とのみごとな一体感が示され、高く評価された。住宅以外にも、ラーキン社ビル(1904)、ユニテリアン教会(1906)があり、以上の作品をまとめて1910年ベルリンで出版し、「有機的建築」に関する主張とともにヨーロッパの建築界に大きな反響をよんだ。しかし、その後の約20年間、出奔という形での最初の妻との離婚、14年のタリアセンでの召使いの放火殺人事件によるチェニー夫人と2人の子供の死など、個人的な不幸が続いたこともあって、ライトの設計活動はマヤ様式の色濃いものとなった。シカゴのミッドウェー・ガーデン(1913)、東京の帝国ホテル(1916~22、現存せず。玄関回りのみ博物館明治村に移築)、パサディナのミラード邸(1923)など数も少ない。

 しかし、この不世出の建築家は、1936年の「落水荘」とよばれるカウフマン邸、38年のジョンソン・ワックス本社ビルの二つの優れた仕事によってふたたびその天才をよみがえらせ、第二次黄金期をつくる。すでに70歳台であったが、当時世界的に広がりつつあった国際建築様式を消化しつつ、30~60度角の平面構成を基調にした建築を展開させて、円熟した個性とあわせて、強靭(きょうじん)な生命力をうたわせる造形を示している。この活躍は第二次世界大戦後も引き継がれ、第二ジェイコブズ邸(1948)、D・ライト邸(1952)、プライス・タワー(1956)、ベス・ショロム・ユダヤ教会(1959)がつくられ、ニューヨークグッゲンハイム美術館完成直前の59年4月9日、アリゾナ州タリアセン・ウェストで没した。死後、カリフォルニア州のマリン郡庁舎などが完成している。

[高見堅志郎]

『E・ターフェル著、谷川睦子・谷川正己訳『現代建築集成別巻3 フランク・ロイド・ライト――天才建築家の人と作品』(1985・啓学出版)』『内井昭蔵訳『フランク・ロイド・ライト――建築家への手紙』(1985・丸善)』『二川幸夫企画・編集・撮影『フランク・ロイド・ライト全集』全12巻(1984~・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『E・カウフマン編、谷川正己・谷川睦子訳『ライトの建築論』(1970・彰国社)』『F・L・ライト著、遠藤楽訳『ライトの生涯』(1977・彰国社)』



ライト(兄弟)
らいと

兄ウィルバーWilbur Wright(1867―1912)、弟オービルOrville Wright(1871―1948)。アメリカの発明家。人類初の動力飛行機を開発した。オハイオ州デイトンで自転車製造販売業を営み、かなりの成功を収めていたが、1896年ドイツ人リリエンタールグライダーの墜落で死亡したことを知り、航空に興味を覚えた。1899年5月、兄ウィルバーはワシントンの半官半民の科学啓発団体であるスミソニアン協会に手紙を書き、飛行に関する英文資料書籍を求めた。このころ協会には、自分でも飛行機の実験を行っていたラングリーがいて親切な返事を与えた。同年8月、飛行に興味を抱き出した弟オービルとともに全幅1.5メートルの複葉凧(たこ)をつくり、主翼を左右両舷(げん)で互いに反対にねじる横揺れ操縦方法を実験した。これは鳥の飛行に暗示されたようだが、ライト兄弟の設計理念を示すきわめて重要な要素であった。模型を基本にしたそれまでの飛行機が、すべて上反角をつけた主翼の固有安定に頼っていたのと対照的だからである。1900年には人間の乗るグライダーを製作し、恒風地を求めて遠い大西洋岸のノース・カロライナ州キティーホークに運んで実験した。主翼の前には昇降舵(しょうこうだ)の役をする前翼をつけた。リリエンタールのように尾翼としなかったのは、つねに搭乗者が監視でき、また水平線に対して前後の傾きの基準とするためであった。1901年、さらに大形のグライダーをつくりキティーホークで実験したが、満足すべき成果が得られなかった。とくに主翼断面形はリリエンタールその他の実験結果と特性に差があった。そこで兄弟は同年9月から翌1902年夏まで、兄弟の飛行の基礎をつくることになった風洞その他の研究を行った。この研究の成果を踏まえて同年秋、第3号グライダーをキティーホークで実験し、ライト機を完成に導いた。兄弟は横滑りのないつり合い旋回を行うため主翼後方に方向舵を設けて、主翼捩(ねじ)りとあわせて操舵するようにした。

 飛行機は三次元運動をする乗り物であり、昇降舵、補助翼(ライト機では主翼捩り)、方向舵の三舵翼をもつべきなのに、成功しなかったそれまでの飛行機は補助翼のない二舵翼であった。ここまでくれば兄弟のグライダーは動力飛行機にあと一歩である。ただ軽いエンジンと効率のよいプロペラを得ることが必要で、兄弟は苦心のすえこの二つも自製した。ここにもライト兄弟の執念と天才が感じられる。兄弟は動力飛行機をフライヤー(飛行機の意)と命名し、1903年夏に製作された1号機は、12月17日、ついにキティーホークにおいて強風中で距離260メートル、時間59秒の飛行に成功した。彼らが自転車の次の商品として開発した飛行機は、彼らの初めの予測以上に偉大で新しい文化となった。

[佐貫亦男]



ライト(Richard Wright)
らいと
Richard Wright
(1908―1960)

アメリカの黒人小説家。ミシシッピ州ナッチェスの貧しい農家の生まれ。少年期は、夫に捨てられた病気の母を助けて生活を支えるために職を転々とし、満足な学校教育も受けられずに独学した。この少年時代の南部での異常な体験は、「幼少期の記録」と副題のある自伝小説『ブラック・ボーイ』(1945)に詳しい。15歳のころH・L・メンケンの作品に感激して、作家になる決意を固める。19歳で南部からシカゴへ脱出、革命的芸術団体ジョン・リード・クラブに参加。まもなく共産党に入党する(1932)。このころ書かれた処女作『アンクル・トムの子供たち』(1938、増補1940)は、南部の人種的偏見を描いた短編集で、『ストーリー』誌の賞を受けた。続いて1940年、人種差別に対する抗議小説の最高傑作『アメリカの息子』で、指導的黒人作家になる。また自然主義の伝統を継承するアメリカ作家として、名実ともに揺るがぬ地位を築いた。

 翌1941年、劇作家ポール・グリーンの協力を得て『アメリカの息子』を劇化。1944年共産党を離脱。第二次世界大戦後、自伝『ブラック・ボーイ』で自己清算を図り、パリへ脱出、実存主義的傾向の実験小説『アウトサイダー』(1953)を書いて転身を試みた。しかし次作『長い夢』(1958)ではふたたびミシシッピを舞台にした陳腐な抗議小説に逆戻りしている。ほかに一連のルポルタージュ『黒い力』(1954)、『カラー・カーテン』(1956)、『異教徒の国スペイン』(1957)、講演集『白人よ、聞け!』(1957)と、死後出版された短編集『八人の男』(1961)、長編『今日という日は』(1963)、『ブラック・ボーイ』の続編『アメリカの飢え』(1977)などがある。彼の抗議小説は次代の黒人作家ボールドウィン、エリソンなどから厳しく批判された。

[関口 功]

『高橋正雄著『悲劇の遍歴者――リチャード・ライトの生涯』(1968・中央大学出版部)』『野崎孝訳『ブラック・ボーイ』上下(岩波文庫)』『北村崇郎訳『続ブラック・ボーイ』(1976・研究社出版)』


ライト(Judith Wright)
らいと
Judith Wright
(1915―2000)

オーストラリアの女性詩人、評論家。クイーンズランド大学哲学者マッキニーMcKinneyと結婚。シドニー北方アーミデール開拓地の初期(1820年代)入植者の家系出身。代表作の一つ『代々の人々』(1959)はこの家系の伝記。シドニー大学から(1937~38年)イギリス、ヨーロッパに遊学。帰国後1938~48年、クイーンズランド大学で統計調査官として働く。その間、処女詩集『移ろうイメージ』(1946)、『女対男』(1949)から『自選集1942~76』(1978)まで十数冊刊行、各種の受賞数回。当初は叙情詩人の名を得たが、しだいに内省的・象徴的傾向を強める。また『オーストラリア詩の重要な関心事』(1965)など、文学評論や研究書も多い。短編小説集や童話もあり、自然環境保護活動家で、クイーンズランド野生動物保護協会会長として活躍したこともあり、その信念はエッセイ集『対話続行』(1992)にまとめられている。

[平松幹夫・古宇田敦子]


ライト(Frances Wright)
らいと
Frances Wright
(1795―1852)

アメリカの女流文筆家、社会改革家、女性解放論者。スコットランドの裕福な商人の家に生まれる。2歳で両親と死別、母方の親戚(しんせき)で育った。1818年妹とアメリカ北東部を旅行。24年ふたたび渡米。R・D・オーエンに共鳴、奴隷解放などの理想を実現すべく翌年自らもテネシー州にナショバというコミューンを建設したが、3年で失敗した。以後執筆活動に携わり、アメリカ各地を精力的に講演して、奴隷解放や民衆のための公的教育の必要性、女性の地位向上などを広く訴えた。女性が公の場で話すことがなかった当時、講演の内容や彼女の過激ともみえる行動はセンセーションを巻き起こし、誹謗(ひぼう)や中傷の的となったが、後の女性解放運動の先駆としてきわめて重要な存在である。31年にフランス人の医者と結婚、女児を儲けたが、のちに離婚。52年12月13日シンシナティで死去。

[太田和子]

『本間長世編『新大陸の女性たち』(1976・評論社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト
Wright, Frank Lloyd

[生]1867.6.8. ウィスコンシン,リッチランドセンター
[没]1959.4.9. アリゾナ,フェニックス
アメリカ合衆国の建築家。ウィスコンシン大学で学んだのち 1887年シカゴへ行き,近代建築の先駆者ルイス・サリバンのもとで働いた。1893年独立しシカゴで活躍,アメリカ近代建築運動の指導的な存在となった。ゆるやかな勾配の屋根と長く突き出たひさし,水平に延びた構成をもつプレーリー・ハウス(大草原住宅)と呼ばれる住宅をシカゴ近郊に数多く設計した。1916年来日して,代表作の一つとされる帝国ホテル(新館,1920~23,解体後一部は明治村に移築)などを建築,日本の近代建築に大きな影響を与えた。有機的建築を主張し,自然と調和した建築を目指した。生涯を通じて膨大な設計を残し,落水荘(1935~37),ジョンソン・ワックス・ビル(1936~46),住宅兼建築工房のタリアセン(1911~59)およびタリアセン・ウェスト(1937~59),ソロモン・R.グッゲンハイム美術館(1956~59。→グッゲンハイム美術館)などの傑作を残した。2019年アメリカ国内の八つの建築作品が世界遺産の文化遺産に登録された。(→アメリカ建築

ライト
Wright, Richard

[生]1908.9.4. ミシシッピ,ナチェズ近郊
[没]1960.11.28. フランス,パリ
アメリカの黒人作家。農場の作男を父に,教員を母に生まれた。 15歳で出奔,さまざまな職を転々とするが,この頃メンケンの著作に触れて文学に開眼。 1932年共産党に入党,ジョン・リード・クラブに所属し,1937年ニューヨークに出てからは左翼系雑誌『マッセズ』に定期的に寄稿した。処女短編集『アンクル・トムの子供たち』 Uncle Tom's Children (1938,増補 1940) で認められ,次いで発表した殺人犯の黒人青年を主人公とする小説『アメリカの息子』 Native Son (1940) によって,第一線の黒人作家の地位を確立し,抗議文学の旗手と目されるにいたった。 1944年に離党,1946年パリに渡り,以後この地に定住。自伝小説『ブラック・ボーイ』 Black Boy (1945) ,共産党を離れた自分を再検討しようとした『アウトサイダー』 The Outsider (1953) などを,イデオロギーにとらわれない立場で書いた。ほかに,評論『ブラック・パワー』 Black Power (1954) ,『白人よ,聞け』 White Man,Listen! (1957) ,小説『長い夢』 The Long Dream (1958) など。

ライト
Wright, Peter

[生]1926.11.25. ロンドン
[没]1995.4.27. タスマニア
イギリスの舞踊家,振付師。 J.ボルコワに師事,1945年 K.ヨースのバレエ団に参加。 47年メトロポリタン歌劇場で踊り,49年サドラーズ・ウェルズ劇場バレエ団 (現バーミンガム・ロイヤル・バレエ団) に移籍,やがて振付を担当してバレエ・マスターに就任した。 57年『ブルー・ローズ』,翌年『グレート・ピーコック』で認められ,61~67年シュツットガルト・バレエ団のバレエ・マスターとして新作のほか,『ジゼル』や E.ラロ作曲による『ナムナ』などの新演出を行い,古典作品の再演に貢献。 69~77年ロイヤル・バレエ団の芸術監督。その後同バレエ団・学校の名誉職をつとめる一方,バーミンガム・ロイヤル・バレエ団のディレクターに就任。また,BBC放送局の舞踊番組制作に参加したり,バーミンガム大学で教鞭をとるなど多彩に活動している。

ライト
Wright, George Ernest

[生]1909.9.5.
[没]1974.8.29.
アメリカの旧約聖書学者。長老派の牧師をつとめたのち,シカゴのマコーミック神学校旧約聖書神学および旧約聖書史助教授 (1941) ,同大学教授 (45) ,ハーバード大学神学教授 (58) を歴任。シケム,ゲゼルなど,パレスチナの重要な遺跡の発掘を指導し,アメリカ・オリエント学会会長をつとめた (66~74) 。『聖書考古学者』 The Biblical Archaeologist誌を創刊,編集。主著は『歴史に働く神』 God Who Acts (52) のほか,"The Old Testament against Its Environment" (50) ,"Biblical Doctrine of Man in Society" (54) ,"Biblical Archaeology" (57) など。

ライト
Wright, Quincy

[生]1890.12.28. マサチューセッツ,メドフォード
[没]1970.10.17. バージニア,シャーロッツビル
アメリカの国際法・国際政治学者。シカゴ大学教授 (1923~56) ,アメリカ政治学会会長 (49~51) ,世界政治学会初代会長 (55~56) ,アメリカ国際法学会会長 (55~56) などをつとめた。数量的手法を取入れた戦争研究と平和の条件設定を試みて,平和研究の先駆者の一人となるとともに,学際的かつ体系的な学問領域としての国際関係論の構築を模索した。主著"AStudy of War" (初版,1942,改訂版,64) ,"A Study of International Relations" (55) 。

ライト
Wright, Joseph

[生]1756.7.16. アメリカ,ニュージャージー,ボーデンタウン
[没]1793. アメリカ,ニューヨーク
アメリカの画家。 1772年ろう人形作家の母に連れられてロンドンに行き,B.ウェストと J.ホップナーに師事。 82年パリをたずねたのち帰国し,肖像画家として活躍,多くの知名人や高官の肖像を描いた。主要作品は『ジョン・ジャイの肖像』 (1786,ニューヨーク歴史協会) ,『ワシントン将軍夫妻像』『マディソン氏像』など。

ライト
Wright, Sewall

[生]1889.12.21. マサチューセッツ,メルローズ
[没]1988.3.3. ウィスコンシン,マジソン
アメリカの遺伝学者。集団遺伝学の創始者の一人。ハーバード大学に学んだのち,農林省勤務 (1915~25) ,シカゴ大学教授 (26~54) ,ウィスコンシン大学教授 (55~60) を歴任。モルモットの体色に関する遺伝生化学的研究を行う。また,メンデル遺伝学に基づいて進化を説明するための数学的理論を開発。遺伝的浮動を進化の要因とする説を立てた。

ライト
Wright, Joseph

[生]1734.9.3. ダービー
[没]1797.8.29. ダービー
イギリスの画家。「ダービーのライト」の通称で知られる。 1751~53年と 56~57年にロンドンで肖像画家 T.ハドソンに師事。その後ダービーに定住し,肖像画家として活躍した。産業革命時代の仕事場を表現する室内画や夜の風景画も多く残している。光と影の効果をねらった特異な画家であった。主要作品『空気ポンプの実験』 (1768,ロンドン,テート・ギャラリー) 。

ライト
Wright, Silas

[生]1795.5.24. マサチューセッツ,アマースト
[没]1847.8.27. ニューヨーク,カントン
アメリカの法律家,政治家。ナショナリストの立場に立つ民主党員。 1824~27年ニューヨーク州上院議員。 27~29年連邦下院議員として高関税政策を支持。 33~44年連邦上院議員として M.バン・ビューレンを支持,この間合衆国銀行に反対,45~47年ニューヨーク州知事。

ライト
Wright, Judith(Arundell)

[生]1915.5.31. ニューサウスウェールズ,アーミデイル
[没]2000.6.25. キャンベラ
オーストラリアの女流詩人。シドニー大学に学ぶ。出世作の処女詩集『動くイメージ』 The Moving Image (1946) のほか,詞華集"The Oxford Book of Australian Verse"の編纂 (1954) ,自伝的小説や評論がある。『全詩集』 Collected Poems (1971) 。

ライト
Rheydt

ドイツ西部,ノルトラインウェストファーレン州,ジュッセルドルフの西約 25kmにあるメンヘングラートバハ南部の地区。 11世紀からの町で,1856年に都市権を獲得。 1972年には人口 10万 1900の工業都市であったが,その後メンヘングラートバハに合併。綿,絹,毛織物などの織物ならびに衣料品工業が盛んで,機械,電機などの工業も行われる。ルネサンス様式の城 (1568~81。現博物館) がある。

ライト
Light, Francis

[生]1740頃.サフォーク
[没]1794.10.21. ペナン島
イギリスの貿易商,ペナンの建設者。 1765年にインドに渡航し,商船船長としてマレー半島西岸を訪れるようになり,ケダー王と親交を結んだ。ペナン島の軍事上,経済上の重要性に着目し,これをイギリスに割譲させ,初代の統治責任者に任命された。同地で病死。

ライト
Wright, Eda Hanna

[生]1870
[没]1950
イギリスの女性社会事業家。 1895年に 25歳で来日し,熊本市回春園に入って救らい (ハンセン病) に献身。第2次世界大戦中はオーストラリアに難を避けていたが,戦後ただちに来日して,国立らい療養所菊池恵楓園 (熊本県) で患者と起居をともにし「救らいの母」と慕われた。

ライト
Wright, Russel

[生]1904. オハイオ,レバノン
[没]1976. ニューヨーク
アメリカの工業デザイナー。プリンストン大学を中退,舞台装置家となり,ノーマン・ベル・ゲデスの助手をしたが,工業デザイナーとして独立。合理的で機能的な家庭用品をデザインして,現代生活の簡易化を主唱した。

ライト
Wright, Thomas

[生]1810
[没]1877
イギリスの古文書研究家。ケンブリッジ大学に学び,『イギリスの古詩』 Early English Poetry (4巻,1836) を編集刊行したほか,多くの研究を発表。

ライト
Wright, John Michael

[生]1617. ロンドン
[没]1700. ロンドン
イギリスの画家。 G.ジェムソンに師事し肖像画家として活躍。一時イタリアに滞在,1648年にローマの聖ルカ・アカデミーの会員になった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報