ライト(その他表記)light

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デジタル大辞泉 「ライト」の意味・読み・例文・類語

ライト(light)

[名・形動]

㋐光。光線。
㋑照明。明かり。「ライトを当てる」「ヘッドライト」「スポットライト
㋒色調が明るいこと。淡いこと。また、そのさま。多く複合語の形で用いる。「ライトグリーン」⇔ダーク
軽いこと。重量のないこと。また、そのさま。
味付けがあっさりしていること。酒類アルコール成分や、タバコニコチン含有量などが少ないこと。また、そのさま。「舌ざわりのライトな調理」「ライトビール」
手軽なこと。行動などにこだわりのないこと。また、そのさま。「若者のライトな感覚」「ライトオペラ」
[類語](1明かり灯火ともし火輝ききらめき光線光明こうみょう光輝こうき光耀こうよう光彩光芒こうぼう閃光せんこう明るみ薄明かり月明かり星明かり雪明かり川明かり花明かり街明かり窓明かりほの明るい薄明るい余光薄明かわたれ時たそがれたそがれ時残照夕明かりおぼろ微光ほのめく薄ら日ほのぼのトワイライト/(2軽い軽量軽軽身軽軽快かろやかひらり

ライト(right)

右。右側。⇔レフト
野球で、右翼。また、右翼手。⇔レフト
右派。保守派。「ニューライト」⇔レフト
《時に、rights となる》正当な要求。権利。→ライツ
[類語]右手右側右方右翼右翼手

ライト(Frank Lloyd Wright)

[1867~1959]米国の建築家。環境と一体化した有機的建築を提唱し、現代建築に大きな影響を与える。東京の帝国ホテル(現存しない)、兵庫の山邑やまむら邸など日本にも作品を残した。
[補説]2019年、グッゲンハイム美術館など8施設が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

ライト(Wilbur Wright)

[1867~1912]米国の発明家。弟オービルとともにライト兄弟とよばれる。兄弟で1903年に複葉機を完成、人類初の動力飛行に成功。→ライト兄弟

ライト(Eda Hanna Wright)

[1870~1950]英国の社会事業家。1895年(明治28)来日、第二次大戦後にも再来日し、国立らい療養所恵楓園などで施療に尽くし、「救癩の母」と慕われた。

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精選版 日本国語大辞典 「ライト」の意味・読み・例文・類語

ライト

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] right )
  2. 正しいこと。正義。
    1. [初出の実例]「ドロワ、ライト、レグトは本来正直の義にて正大直方自立自主の理を伸る意を含む」(出典:泰西国法論(1868)〈津田真道訳〉凡例)
  3. 権利。
    1. [初出の実例]「其権義(ライト)をも異にするもの多し」(出典:文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉五)
  4. 右。右側。〔舶来語便覧(1912)〕
  5. ( [アメリカ] right field, right fielder の略 ) 野球で、右翼。また、右翼手。
    1. [初出の実例]「右翼 『ライト・フールダー』(Right fielder)と云ひ、略して『ライトフールド』、又『ライト』と呼びます」(出典:新式ベースボール術(1898)〈高橋雄次郎〉三)
  6. 保守的な立場。また、その人。右派。

ライト

  1. [ 一 ] ( Edde Hanna Wright エダ=ハンナ━ ) イギリスの社会事業家。第二次世界大戦前、および戦後に来日、国立癩療養所恵楓園などで患者につくして、「救癩の母」といわれた。(一八七〇‐一九五〇
  2. [ 二 ] ( Frank Lloyd Wright フランク=ロイド━ ) アメリカの建築家。二〇世紀建築の巨匠。機能主義建築に対して、有機的建築を主張、日本では大正五年(一九一六)から一一年にかけて、旧帝国ホテルを造った。ほかに、落水荘、グッゲンハイム美術館など。(一八六七‐一九五九
  3. [ 三 ] ( Richard Wright リチャード━ ) アメリカの黒人小説家。人種的差別、偏見の問題を主題に抗議文学を書いた。代表作「アメリカの息子」「アウトサイダー」。(一九〇八‐六〇

ライト

  1. ( [英語] light )
  2. [ 1 ] 〘 名詞 〙 電灯などによる、人工的な光。光線。照明。また、そのための装置。灯火。〔外来語辞典(1914)〕
    1. [初出の実例]「秋雨の煙りが、ぱっとライトに輝き渡る度毎に」(出典:紋章(1934)〈横光利一〉一)
  3. [ 2 ] 〘 造語要素 〙
    1. 色の名などに付けて、明るい、淡いの意を添える語。「ライトブラウン」「ライトブルー」など。
    2. 重量のない、軽い、また、手軽いなどの意を添える語。「ライトオペラ」など。〔外来語辞典(1914)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト(Frank Lloyd Wright)
らいと
Frank Lloyd Wright
(1867―1959)

アメリカの建築家で、20世紀のもっとも重要な建築家の1人。6月8日ウィスコンシン州リッチモンドセンターに生まれる(生年については1869年説もある)。同州立大学土木学科を卒業後、1887年シカゴに出てルイス・サリバンの建築事務所に入り、多くを学んだ。93年に独立して住宅建築を中心に設計活動を開始、やがて初期の注目すべき作品、プレーリー(草原)・ハウス・シリーズを発表していく。ハートレー邸(1902)、マーチン邸(1904)、クーンレイ邸(1908)、ロビー邸(1909~10)などであり、ここでは日本建築に関心が示される一方で、水平面に延びる線、空間の流動性、緩い勾配(こうばい)の屋根と深い庇(ひさし)がもたらす陰影など、大地とのみごとな一体感が示され、高く評価された。住宅以外にも、ラーキン社ビル(1904)、ユニテリアン教会(1906)があり、以上の作品をまとめて1910年ベルリンで出版し、「有機的建築」に関する主張とともにヨーロッパの建築界に大きな反響をよんだ。しかし、その後の約20年間、出奔という形での最初の妻との離婚、14年のタリアセンでの召使いの放火殺人事件によるチェニー夫人と2人の子供の死など、個人的な不幸が続いたこともあって、ライトの設計活動はマヤ様式の色濃いものとなった。シカゴのミッドウェー・ガーデン(1913)、東京の帝国ホテル(1916~22、現存せず。玄関回りのみ博物館明治村に移築)、パサディナのミラード邸(1923)など数も少ない。

 しかし、この不世出の建築家は、1936年の「落水荘」とよばれるカウフマン邸、38年のジョンソン・ワックス本社ビルの二つの優れた仕事によってふたたびその天才をよみがえらせ、第二次黄金期をつくる。すでに70歳台であったが、当時世界的に広がりつつあった国際建築様式を消化しつつ、30~60度角の平面構成を基調にした建築を展開させて、円熟した個性とあわせて、強靭(きょうじん)な生命力をうたわせる造形を示している。この活躍は第二次世界大戦後も引き継がれ、第二ジェイコブズ邸(1948)、D・ライト邸(1952)、プライス・タワー(1956)、ベス・ショロム・ユダヤ教会(1959)がつくられ、ニューヨークのグッゲンハイム美術館完成直前の59年4月9日、アリゾナ州タリアセン・ウェストで没した。死後、カリフォルニア州のマリン郡庁舎などが完成している。

[高見堅志郎]

『E・ターフェル著、谷川睦子・谷川正己訳『現代建築集成別巻3 フランク・ロイド・ライト――天才建築家の人と作品』(1985・啓学出版)』『内井昭蔵訳『フランク・ロイド・ライト――建築家への手紙』(1985・丸善)』『二川幸夫企画・編集・撮影『フランク・ロイド・ライト全集』全12巻(1984~・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『E・カウフマン編、谷川正己・谷川睦子訳『ライトの建築論』(1970・彰国社)』『F・L・ライト著、遠藤楽訳『ライトの生涯』(1977・彰国社)』



ライト(兄弟)
らいと

兄ウィルバーWilbur Wright(1867―1912)、弟オービルOrville Wright(1871―1948)。アメリカの発明家。人類初の動力飛行機を開発した。オハイオ州デイトンで自転車製造販売業を営み、かなりの成功を収めていたが、1896年ドイツ人リリエンタールがグライダーの墜落で死亡したことを知り、航空に興味を覚えた。1899年5月、兄ウィルバーはワシントンの半官半民の科学啓発団体であるスミソニアン協会に手紙を書き、飛行に関する英文資料書籍を求めた。このころ協会には、自分でも飛行機の実験を行っていたラングリーがいて親切な返事を与えた。同年8月、飛行に興味を抱き出した弟オービルとともに全幅1.5メートルの複葉凧(たこ)をつくり、主翼を左右両舷(げん)で互いに反対にねじる横揺れ操縦方法を実験した。これは鳥の飛行に暗示されたようだが、ライト兄弟の設計理念を示すきわめて重要な要素であった。模型を基本にしたそれまでの飛行機が、すべて上反角をつけた主翼の固有安定に頼っていたのと対照的だからである。1900年には人間の乗るグライダーを製作し、恒風地を求めて遠い大西洋岸のノース・カロライナ州キティーホークに運んで実験した。主翼の前には昇降舵(しょうこうだ)の役をする前翼をつけた。リリエンタールのように尾翼としなかったのは、つねに搭乗者が監視でき、また水平線に対して前後の傾きの基準とするためであった。1901年、さらに大形のグライダーをつくりキティーホークで実験したが、満足すべき成果が得られなかった。とくに主翼断面形はリリエンタールその他の実験結果と特性に差があった。そこで兄弟は同年9月から翌1902年夏まで、兄弟の飛行の基礎をつくることになった風洞その他の研究を行った。この研究の成果を踏まえて同年秋、第3号グライダーをキティーホークで実験し、ライト機を完成に導いた。兄弟は横滑りのないつり合い旋回を行うため主翼後方に方向舵を設けて、主翼捩(ねじ)りとあわせて操舵するようにした。

 飛行機は三次元運動をする乗り物であり、昇降舵、補助翼(ライト機では主翼捩り)、方向舵の三舵翼をもつべきなのに、成功しなかったそれまでの飛行機は補助翼のない二舵翼であった。ここまでくれば兄弟のグライダーは動力飛行機にあと一歩である。ただ軽いエンジンと効率のよいプロペラを得ることが必要で、兄弟は苦心のすえこの二つも自製した。ここにもライト兄弟の執念と天才が感じられる。兄弟は動力飛行機をフライヤー(飛行機の意)と命名し、1903年夏に製作された1号機は、12月17日、ついにキティーホークにおいて強風中で距離260メートル、時間59秒の飛行に成功した。彼らが自転車の次の商品として開発した飛行機は、彼らの初めの予測以上に偉大で新しい文化となった。

[佐貫亦男]



ライト(Richard Wright)
らいと
Richard Wright
(1908―1960)

アメリカの黒人小説家。ミシシッピ州ナッチェスの貧しい農家の生まれ。少年期は、夫に捨てられた病気の母を助けて生活を支えるために職を転々とし、満足な学校教育も受けられずに独学した。この少年時代の南部での異常な体験は、「幼少期の記録」と副題のある自伝小説『ブラック・ボーイ』(1945)に詳しい。15歳のころH・L・メンケンの作品に感激して、作家になる決意を固める。19歳で南部からシカゴへ脱出、革命的芸術団体ジョン・リード・クラブに参加。まもなく共産党に入党する(1932)。このころ書かれた処女作『アンクル・トムの子供たち』(1938、増補1940)は、南部の人種的偏見を描いた短編集で、『ストーリー』誌の賞を受けた。続いて1940年、人種差別に対する抗議小説の最高傑作『アメリカの息子』で、指導的黒人作家になる。また自然主義の伝統を継承するアメリカ作家として、名実ともに揺るがぬ地位を築いた。

 翌1941年、劇作家ポール・グリーンの協力を得て『アメリカの息子』を劇化。1944年共産党を離脱。第二次世界大戦後、自伝『ブラック・ボーイ』で自己清算を図り、パリへ脱出、実存主義的傾向の実験小説『アウトサイダー』(1953)を書いて転身を試みた。しかし次作『長い夢』(1958)ではふたたびミシシッピを舞台にした陳腐な抗議小説に逆戻りしている。ほかに一連のルポルタージュ『黒い力』(1954)、『カラー・カーテン』(1956)、『異教徒の国スペイン』(1957)、講演集『白人よ、聞け!』(1957)と、死後出版された短編集『八人の男』(1961)、長編『今日という日は』(1963)、『ブラック・ボーイ』の続編『アメリカの飢え』(1977)などがある。彼の抗議小説は次代の黒人作家ボールドウィン、エリソンなどから厳しく批判された。

[関口 功]

『高橋正雄著『悲劇の遍歴者――リチャード・ライトの生涯』(1968・中央大学出版部)』『野崎孝訳『ブラック・ボーイ』上下(岩波文庫)』『北村崇郎訳『続ブラック・ボーイ』(1976・研究社出版)』


ライト(Judith Wright)
らいと
Judith Wright
(1915―2000)

オーストラリアの女性詩人、評論家。クイーンズランド大学哲学者マッキニーMcKinneyと結婚。シドニー北方アーミデール開拓地の初期(1820年代)入植者の家系出身。代表作の一つ『代々の人々』(1959)はこの家系の伝記。シドニー大学から(1937~38年)イギリス、ヨーロッパに遊学。帰国後1938~48年、クイーンズランド大学で統計調査官として働く。その間、処女詩集『移ろうイメージ』(1946)、『女対男』(1949)から『自選集1942~76』(1978)まで十数冊刊行、各種の受賞数回。当初は叙情詩人の名を得たが、しだいに内省的・象徴的傾向を強める。また『オーストラリア詩の重要な関心事』(1965)など、文学評論や研究書も多い。短編小説集や童話もあり、自然環境保護活動家で、クイーンズランド野生動物保護協会会長として活躍したこともあり、その信念はエッセイ集『対話続行』(1992)にまとめられている。

[平松幹夫・古宇田敦子]


ライト(Frances Wright)
らいと
Frances Wright
(1795―1852)

アメリカの女流文筆家、社会改革家、女性解放論者。スコットランドの裕福な商人の家に生まれる。2歳で両親と死別、母方の親戚(しんせき)で育った。1818年妹とアメリカ北東部を旅行。24年ふたたび渡米。R・D・オーエンに共鳴、奴隷解放などの理想を実現すべく翌年自らもテネシー州にナショバというコミューンを建設したが、3年で失敗した。以後執筆活動に携わり、アメリカ各地を精力的に講演して、奴隷解放や民衆のための公的教育の必要性、女性の地位向上などを広く訴えた。女性が公の場で話すことがなかった当時、講演の内容や彼女の過激ともみえる行動はセンセーションを巻き起こし、誹謗(ひぼう)や中傷の的となったが、後の女性解放運動の先駆としてきわめて重要な存在である。31年にフランス人の医者と結婚、女児を儲けたが、のちに離婚。52年12月13日シンシナティで死去。

[太田和子]

『本間長世編『新大陸の女性たち』(1976・評論社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト
Frank Lloyd Wright
生没年:1867-1959

アメリカの建築家。ウィスコンシン州の小都市リッチランド・センターRichland Centerの生れ。家庭的に恵まれず,高校,大学とも中退。シカゴに出ていくつかの建築事務所で働き,最後にL.H.サリバンに師事し,アメリカ人のためのアメリカらしい建築の創造を目ざす情熱に強く動かされる。1893年独立してシカゴ西郊オークパークに事務所を開設。師サリバンの〈形態は機能に従う〉との主張を発展させ〈形態と機能は一つである〉といいかえて,〈有機的建築organic architecture〉の理論を提唱した。1900年代初め,アメリカ中西部の大草原に,ゆるいこう配と深い軒をもち,大地に根を張ったように低く広がる〈草原住宅Prairie House〉の傑作を数多く生み出す。独立後最初の作品ウィンスロー邸(1893)に,その思想はすでに予告されているが,マーティン邸(1904),ロビー邸(1908),クーンレイ邸(1908-12)などは,いずれも平面,外観,細部に至るまで独自のデザイン手法がこの期に確立されたことを示している。10年ドイツで,彼の最初の作品集が刊行される。本国ではまだ十分な評価をうけていなかったものの,20代であったW.グロピウス,ミース・ファン・デル・ローエ,ル・コルビュジエなど,後の巨匠たちに強い衝撃を与える。またこの期に,ラーキン・ビル(1904)で事務所建築のあり方を,ユニティ教会(1906)で威厳と静寂を求める教会堂建築を探り,独自の提案をなしている。

 36年までは個人的な不幸もあり逆境の時代で,作品数も少ないが,その中で帝国ホテル(1915-22),山邑邸(1918),自由学園(1921)など彼の国外での作品のほとんどが日本に建てられた。帝国ホテルはとくに,日本の近代建築に大きな影響を与え,同行の弟子A.レーモンドはこれを機に日本にとどまって活動を続けた。また遠藤新らはライトに教えをうけている。バーンズドール邸(1917-20),ミラード邸(1923)などカリフォルニアに建てられた住宅は,中西部とは異質な気候風土をふまえたコンクリート・ブロックによる造形を生み出している。ワシントン郊外のらせん形展望台(1925),巨大なガラスのピラミッド形大聖堂(1926)などでは,後に実現する新しい造形に挑む。28年アリゾナの砂漠を訪れ,深い印象を受けている。この期はライトの不毛の時代というより,内に蓄積した時代といえよう。

 滝のある崖地に建つカウフマン邸(落水荘。1936-39)やジョンソン・ワックス社の建築群(1936-46)で,多産な時代が再び訪れる。量産木造の〈ユーソニアン住宅Usonian House〉は,彼の理想田園都市計画〈ブロードエーカー・シティ〉(1934)に建てられるべきものであった。ルイス邸(1940)は数多い住宅の中で,中産階級向けの典型をよく示す。38年アリゾナの砂漠に建設した彼の創作の根拠地タリアセン・ウェストは,アメリカの大地に触発されて生まれた〈有機的建築〉の最高傑作と呼ぶにふさわしい。らせん構造,円形平面のグッゲンハイム美術館(1956-59)は,造形と構造についての深い考察とながい追求の結果実現した作品で,夢に終わった高さ1マイル,13万人収容の超高層ビル,マイル・ハイ・イリノイ案(1956)とともに,ライトの作品の多様さ,構想力の大胆さ・自由さを遺憾なく示している。《自伝》(1932),《ナチュラル・ハウス》(1954),《遺言》(1957)などの著作を残す。
執筆者:


ライト
Richard Wright
生没年:1908-60

アメリカの黒人作家。代表作《アメリカの息子》(1940)によってアメリカ黒人文学を初めて世界文学の地位にまで高めた。ミシシッピ州ナッチェズ近郊で貧しい小作人の子として生まれ,極度の貧困と人種差別のはげしい南部の環境のなかで,多難な幼少年時代を送った。19歳でシカゴに出て30年代の大不況時代のさなか雑多な職業につきながら,ニューディール政策の一環であった連邦作家計画によって創作修業の機会を得た。1932年,24歳のとき共産党に入党,44年の脱党まで約12年間,各種の左翼機関誌紙の編集に携わる一方,さかんな執筆活動を展開した。1938年,自然主義手法による短編集《アンクル・トムの子どもたち》で《ストーリー》誌の文学賞を獲得したのち,40年に長編《アメリカの息子Native Son》を発表して一躍有名になった。ドライサーの《アメリカの悲劇》やドストエフスキーの《罪と罰》の影響をつよく受けたといわれるこの作品は,白人娘を殺害して死刑宣告を受けた黒人少年の屈折した心理と人種差別的な社会環境の関係を迫力ある文体で克明に追求したものであった。この作品はその芸術作品としての完成度を高く評価されるとともに,アメリカの現実をはげしく告発する主張をこめたことによって,アメリカ黒人文学の最も輝かしい成果として注目をあびた。こうした作者の姿勢は黒人文学全般に大きな影響を与え,〈抗議小説〉〈ライト派〉などの呼び方を定着させた。自伝的作品《黒人の少年》(1945)も同系列の作品であったが,47年パリへ移住してからの作品ではしだいに黒人のおかれた〈疎外〉状況に力点をおいて描くようになった。長編《アウトサイダー》(1953)はその期の代表作である。講演活動や旅行記の執筆をつづけていたパリ時代のライトは神経症的な不安にさいなまれるようになり,52歳の若さでパリに病死した。多くの作品中,短編集《8人の男》や長編《アメリカの飢え》は死後の出版である。
執筆者:


ライト
Francis Light
生没年:1740-94

イギリスの貿易商人で,ペナン植民地の建設者。私生児として生まれ,イギリス海軍に勤務したのち,1763年マドラスに赴き,現地商社の代理人となり,70年スマトラのアチェに駐在した。アチェを基地としてマレー半島に進出し,71年クアラ・ケダに商館を開設した。当時ケダでは内乱が発生しており,スルタンはペナン島の割譲と引換えにイギリス東インド会社の保護を求めようとした。会社はかならずしも乗り気でなかったが,ライトはスルタンの代理として会社と交渉し,86年彼の半ば独断でペナン島の会社による領有を宣言した。ケダのスルタンはまたシャム(タイ)とビルマ(ミャンマー)の戦争に巻き込まれないよう,同じく会社の保護を求めたが,会社が消極的な回答をしたため,91年にスルタンは約束不履行を盾にライトに対してペナン島の返還を要求した。ライトはこれを拒否したうえ,スルタン側に先制攻撃をかけ,6000メキシコ・ドル(当時東南アジアで流通していた)でペナン島を正式に割譲させる条約をスルタンとの間に結んだ。ライトはその後もペナンにとどまり,同地を自由港として経営しようと努めた。なお会社はライトに対して最初は冷たい態度をとったが,ナポレオン戦争の進行過程でペナンの重要性に気づき,その態度を改めた。
執筆者:


ライト
Sewall Wright
生没年:1889-1988

アメリカの遺伝学者。アメリカで最初のメンデル遺伝学者キャッスルW.E.Castle(1867-1962)のもとでモルモットの皮色の生理遺伝学的研究を行うとともに近親交配の数学的理論の研究を始めた。その後,農務省の動物育種部でこれらの研究を深め,この間,経路分析と呼ばれる統計学的分析法を発案した。シカゴ大学に移ってからは進化の問題にも多くの理論的貢献をなし,とくに1931年に発表した《メンデル集団における進化》は,〈移動平衡説〉と呼ばれる彼の進化理論の基礎をかたちづくった,集団遺伝学・進化学の画期的な論文として有名である。主著に《進化と集団の遺伝学》全4巻(1968-78)がある。
執筆者:


ライト
Joseph Wright
生没年:1734-97

イギリスの画家。生地にちなみ,〈ライト・オブ・ダービーWright of Derby〉とも呼ばれる。1750年代にJ.レーノルズの弟弟子として肖像画家ハドソンThomas Hudsonのもとで画業を修めた。しかし,単なる肖像画家にとどまらず,古代文学から最新産業技術まで多様な分野の主題を描いた。また絵画における光の表現にも関心を寄せ,月光,夜の室内のろうそくの光など,さまざまな光源の情景を制作。技法面では写実的傾向が強いが,そこに託された画家の心情にはしばしばロマン主義を予告するものが感じられる。
執筆者:


ライト
Frances Wright
生没年:1795-1852

アメリカの作家,社会改革家。スコットランドに生まれ,1818年渡米,ニューヨークで自作の劇を出版,上演。25年,奴隷解放のためにテネシー州ナショーバに共同体を建設するが2,3年で失敗。その後,著作,講演活動を続けた。宗教組織や結婚制度を批判し,人種と男女の平等,産児制限を主張し,思想的に異端視された。さらに女性が講演を行うことに対する非難も浴びたが,後の女性解放運動への先駆となった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト
Wright, Frank Lloyd

[生]1867.6.8. ウィスコンシン,リッチランドセンター
[没]1959.4.9. アリゾナ,フェニックス
アメリカ合衆国の建築家。ウィスコンシン大学で学んだのち 1887年シカゴへ行き,近代建築の先駆者ルイス・サリバンのもとで働いた。1893年独立しシカゴで活躍,アメリカ近代建築運動の指導的な存在となった。ゆるやかな勾配の屋根と長く突き出たひさし,水平に延びた構成をもつプレーリー・ハウス(大草原住宅)と呼ばれる住宅をシカゴ近郊に数多く設計した。1916年来日して,代表作の一つとされる帝国ホテル(新館,1920~23,解体後一部は明治村に移築)などを建築,日本の近代建築に大きな影響を与えた。有機的建築を主張し,自然と調和した建築を目指した。生涯を通じて膨大な設計を残し,落水荘(1935~37),ジョンソン・ワックス・ビル(1936~46),住宅兼建築工房のタリアセン(1911~59)およびタリアセン・ウェスト(1937~59),ソロモン・R.グッゲンハイム美術館(1956~59。→グッゲンハイム美術館)などの傑作を残した。2019年アメリカ国内の八つの建築作品が世界遺産の文化遺産に登録された。(→アメリカ建築

ライト
Wright, Richard

[生]1908.9.4. ミシシッピ,ナチェズ近郊
[没]1960.11.28. フランス,パリ
アメリカの黒人作家。農場の作男を父に,教員を母に生まれた。 15歳で出奔,さまざまな職を転々とするが,この頃メンケンの著作に触れて文学に開眼。 1932年共産党に入党,ジョン・リード・クラブに所属し,1937年ニューヨークに出てからは左翼系雑誌『マッセズ』に定期的に寄稿した。処女短編集『アンクル・トムの子供たち』 Uncle Tom's Children (1938,増補 1940) で認められ,次いで発表した殺人犯の黒人青年を主人公とする小説『アメリカの息子』 Native Son (1940) によって,第一線の黒人作家の地位を確立し,抗議文学の旗手と目されるにいたった。 1944年に離党,1946年パリに渡り,以後この地に定住。自伝小説『ブラック・ボーイ』 Black Boy (1945) ,共産党を離れた自分を再検討しようとした『アウトサイダー』 The Outsider (1953) などを,イデオロギーにとらわれない立場で書いた。ほかに,評論『ブラック・パワー』 Black Power (1954) ,『白人よ,聞け』 White Man,Listen! (1957) ,小説『長い夢』 The Long Dream (1958) など。

ライト
Wright, Peter

[生]1926.11.25. ロンドン
[没]1995.4.27. タスマニア
イギリスの舞踊家,振付師。 J.ボルコワに師事,1945年 K.ヨースのバレエ団に参加。 47年メトロポリタン歌劇場で踊り,49年サドラーズ・ウェルズ劇場バレエ団 (現バーミンガム・ロイヤル・バレエ団) に移籍,やがて振付を担当してバレエ・マスターに就任した。 57年『ブルー・ローズ』,翌年『グレート・ピーコック』で認められ,61~67年シュツットガルト・バレエ団のバレエ・マスターとして新作のほか,『ジゼル』や E.ラロ作曲による『ナムナ』などの新演出を行い,古典作品の再演に貢献。 69~77年ロイヤル・バレエ団の芸術監督。その後同バレエ団・学校の名誉職をつとめる一方,バーミンガム・ロイヤル・バレエ団のディレクターに就任。また,BBC放送局の舞踊番組制作に参加したり,バーミンガム大学で教鞭をとるなど多彩に活動している。

ライト
Wright, George Ernest

[生]1909.9.5.
[没]1974.8.29.
アメリカの旧約聖書学者。長老派の牧師をつとめたのち,シカゴのマコーミック神学校旧約聖書神学および旧約聖書史助教授 (1941) ,同大学教授 (45) ,ハーバード大学神学教授 (58) を歴任。シケム,ゲゼルなど,パレスチナの重要な遺跡の発掘を指導し,アメリカ・オリエント学会会長をつとめた (66~74) 。『聖書考古学者』 The Biblical Archaeologist誌を創刊,編集。主著は『歴史に働く神』 God Who Acts (52) のほか,"The Old Testament against Its Environment" (50) ,"Biblical Doctrine of Man in Society" (54) ,"Biblical Archaeology" (57) など。

ライト
Wright, Quincy

[生]1890.12.28. マサチューセッツメドフォード
[没]1970.10.17. バージニア,シャーロッツビル
アメリカの国際法・国際政治学者。シカゴ大学教授 (1923~56) ,アメリカ政治学会会長 (49~51) ,世界政治学会初代会長 (55~56) ,アメリカ国際法学会会長 (55~56) などをつとめた。数量的手法を取入れた戦争研究と平和の条件設定を試みて,平和研究の先駆者の一人となるとともに,学際的かつ体系的な学問領域としての国際関係論の構築を模索した。主著"AStudy of War" (初版,1942,改訂版,64) ,"A Study of International Relations" (55) 。

ライト
Wright, Joseph

[生]1756.7.16. アメリカ,ニュージャージー,ボーデンタウン
[没]1793. アメリカ,ニューヨーク
アメリカの画家。 1772年ろう人形作家の母に連れられてロンドンに行き,B.ウェストと J.ホップナーに師事。 82年パリをたずねたのち帰国し,肖像画家として活躍,多くの知名人や高官の肖像を描いた。主要作品は『ジョン・ジャイの肖像』 (1786,ニューヨーク歴史協会) ,『ワシントン将軍夫妻像』『マディソン氏像』など。

ライト
Wright, Sewall

[生]1889.12.21. マサチューセッツ,メルローズ
[没]1988.3.3. ウィスコンシン,マジソン
アメリカの遺伝学者。集団遺伝学の創始者の一人。ハーバード大学に学んだのち,農林省勤務 (1915~25) ,シカゴ大学教授 (26~54) ,ウィスコンシン大学教授 (55~60) を歴任。モルモットの体色に関する遺伝生化学的研究を行う。また,メンデル遺伝学に基づいて進化を説明するための数学的理論を開発。遺伝的浮動を進化の要因とする説を立てた。

ライト
Wright, Joseph

[生]1734.9.3. ダービー
[没]1797.8.29. ダービー
イギリスの画家。「ダービーのライト」の通称で知られる。 1751~53年と 56~57年にロンドンで肖像画家 T.ハドソンに師事。その後ダービーに定住し,肖像画家として活躍した。産業革命時代の仕事場を表現する室内画や夜の風景画も多く残している。光と影の効果をねらった特異な画家であった。主要作品『空気ポンプの実験』 (1768,ロンドン,テート・ギャラリー) 。

ライト
Wright, Silas

[生]1795.5.24. マサチューセッツ,アマースト
[没]1847.8.27. ニューヨーク,カントン
アメリカの法律家,政治家。ナショナリストの立場に立つ民主党員。 1824~27年ニューヨーク州上院議員。 27~29年連邦下院議員として高関税政策を支持。 33~44年連邦上院議員として M.バン・ビューレンを支持,この間合衆国銀行に反対,45~47年ニューヨーク州知事。

ライト
Wright, Judith(Arundell)

[生]1915.5.31. ニューサウスウェールズ,アーミデイル
[没]2000.6.25. キャンベラ
オーストラリアの女流詩人。シドニー大学に学ぶ。出世作の処女詩集『動くイメージ』 The Moving Image (1946) のほか,詞華集"The Oxford Book of Australian Verse"の編纂 (1954) ,自伝的小説や評論がある。『全詩集』 Collected Poems (1971) 。

ライト
Rheydt

ドイツ西部,ノルトラインウェストファーレン州,ジュッセルドルフの西約 25kmにあるメンヘングラートバハ南部の地区。 11世紀からの町で,1856年に都市権を獲得。 1972年には人口 10万 1900の工業都市であったが,その後メンヘングラートバハに合併。綿,絹,毛織物などの織物ならびに衣料品工業が盛んで,機械,電機などの工業も行われる。ルネサンス様式の城 (1568~81。現博物館) がある。

ライト
Light, Francis

[生]1740頃.サフォーク
[没]1794.10.21. ペナン島
イギリスの貿易商,ペナンの建設者。 1765年にインドに渡航し,商船船長としてマレー半島西岸を訪れるようになり,ケダー王と親交を結んだ。ペナン島の軍事上,経済上の重要性に着目し,これをイギリスに割譲させ,初代の統治責任者に任命された。同地で病死。

ライト
Wright, Eda Hanna

[生]1870
[没]1950
イギリスの女性社会事業家。 1895年に 25歳で来日し,熊本市回春園に入って救らい (ハンセン病) に献身。第2次世界大戦中はオーストラリアに難を避けていたが,戦後ただちに来日して,国立らい療養所菊池恵楓園 (熊本県) で患者と起居をともにし「救らいの母」と慕われた。

ライト
Wright, Russel

[生]1904. オハイオ,レバノン
[没]1976. ニューヨーク
アメリカの工業デザイナー。プリンストン大学を中退,舞台装置家となり,ノーマン・ベル・ゲデスの助手をしたが,工業デザイナーとして独立。合理的で機能的な家庭用品をデザインして,現代生活の簡易化を主唱した。

ライト
Wright, Thomas

[生]1810
[没]1877
イギリスの古文書研究家。ケンブリッジ大学に学び,『イギリスの古詩』 Early English Poetry (4巻,1836) を編集刊行したほか,多くの研究を発表。

ライト
Wright, John Michael

[生]1617. ロンドン
[没]1700. ロンドン
イギリスの画家。 G.ジェムソンに師事し肖像画家として活躍。一時イタリアに滞在,1648年にローマの聖ルカ・アカデミーの会員になった。

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百科事典マイペディア 「ライト」の意味・わかりやすい解説

ライト

米国の建築家。生地のウィスコンシン大学で工学を学んだ後,シカゴでL.H.サリバンの下で住宅建築を担当。独立後,〈有機的建築〉の理論を提唱,プレーリー様式と呼ばれる水平線を強調した安定した構成を用いてウィンスロー邸,ロビー邸など初期の傑作を残した。1916年―1922年来日,帝国ホテルのほか自由学園などを設計,日本の現代建築に大きな影響を与えた。その後もカウフマン邸(落水荘),グッゲンハイム美術館などを発表,米国建築界の指導的存在となった。日本美術,とくに浮世絵の膨大なコレクションを行った。
→関連項目グルジェフノイトラマッキム・ミード・アンド・ホワイトレーモンド

ライト

米国のアフリカ系作家。15歳で文学を志し,19歳で生地ミシシッピからシカゴに出た。1932年に共産党入党。作品集《アンクル・トムの子どもたち》(1938年)に続く長編《アメリカの息子》(1940年)でアフリカ系少年の悲劇を描き抗議文学の旗手となる。のち脱党,自伝小説《黒人の少年》(1945年)を発表後パリに去り,小説《アウトサイダー》(1953年),評論集《ブラック・パワー》を発表。

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朝日日本歴史人物事典 「ライト」の解説

ライト

没年:1959.4.9(1959.4.9)
生年:1867.6.8
明治以降,何度か来日したアメリカの建築家。ウィスコンシン州リッチランドセンター生まれ。L.H.サリバンに師事し,シカゴ近郊に,ロビー邸宅(1908~10)に代表される一連のプレーリー・ハウス(草原住宅)を作り,名声を得る。のちに,自然と建築の融合を目指した「有機的建築」を提唱,カウフマン邸(落水荘)やジョンソン・ワックス本社ビルなどの名作を作った。浮世絵や東洋美術の収集を目的に明治38(1905)年に初来日。日本での代表作である帝国ホテル(1922年竣工,23年開館)は,混迷していた大正期の建築界に新風を吹き込み,若い建築家に大きな影響を与え,全国的に「ライト式」が流行した。ライトの国外作品のほとんどは日本で実現されており,ほかに自由学園や山邑邸などがある。

(大川三雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「ライト」の解説

ライト
Frank Lloyd Wright

1869.6.8~1959.4.9

アメリカの建築家。ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエと並ぶ現代建築の世界的巨匠。1905年(明治38)初来日。浮世絵の収集家としても著名。建築家として東京日比谷に帝国ホテル(23年竣工。玄関部分が愛知県犬山市の明治村に移築復元)を建設し,彼自身の代表作を日本に遺す。昭和初期にスクラッチタイル張りライト式建築の流行をもたらす。自由学園明日館(みょうにちかん)(重文)・林愛作邸のほか,兵庫県芦屋市に旧山邑邸(重文)が現存。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ライト」の解説

ライト Wright, Ada Hannah

1870-1950 イギリスの社会事業家。
1870年2月13日生まれ。ハンナ=リデルの姪(めい)。明治29年(1896)伯母の要請で来日,各地で英語教育と伝道活動をおこなう。大正12年以降リデルが開設した熊本回春病院でハンセン病患者の救済事業にあたった。のち同院長。戦後再来日し,昭和25年2月26日熊本の恵楓園で死去。80歳。ロンドン出身。

ライト Wright, William Ball

1843-1912 イギリスの宣教師。
1843年10月5日生まれ。1843年10月5日生まれ。明治6年(1873)イギリス聖公会の海外福音伝道会から派遣されてA.ショーとともに来日。東京で伝道をはじめ,牛込聖バルナバ教会をたて,神奈川県でも布教。東京三一神学校,聖教社神学校でおしえた。15年帰国。享年69歳。トリニティー大卒。

ライト Wright, Edward

1863-? イギリスの伝道者。
明治28年(1895)救世軍大佐,初代日本救世軍司令官として来日。東京新富町に本営をおき,横浜,八王子など各地に小隊を設置した。「救世軍の歌」や機関紙「ときのこゑ」を刊行。伝道と社会事業につくし,32年帰国。ロンドン出身。
【格言など】日本人をして日本を救わしめよ(来日時のことば)

ライト Wright, Frank Lloyd

1867-1959 アメリカの建築家。
1867年6月8日生まれ。シカゴのサリバン事務所に勤務後独立し,有機的建築論をとなえる。明治38年(1905)以来たびたび来日。旧帝国ホテル,自由学園,山邑(やまむら)邸,福原邸などを設計した。1959年4月9日死去。91歳。ウィスコンシン州出身。ウィスコンシン州立大卒。

ライト Wright, Charles

1811-1885 アメリカの植物学者。
1811年10月29日生まれ。ペリー艦隊の一員として嘉永(かえい)6年(1853)来日し,7年に離日。その間,琉球,伊豆(いず)下田,箱館(はこだて)などに上陸し,植物を採集した。1885年8月11日死去。73歳。コネティカット州出身。エール大卒。

ライト Wright, William V.

?-1893 カナダの宣教師。
明治21年(1888)フレンド派カナダ年会婦人外国伝道協会から派遣されて来日。コサンドがはじめたフレンド派の日本伝道にくわわる。東京麻布に男子学校をひらき,伝道者を養成する。健康を害し24年帰国。1893年2月9日死去。トロント大卒。

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デジタル大辞泉プラス 「ライト」の解説

ライト〔航空母艦〕

《Wright》アメリカ海軍の航空母艦。サイパン級航空母艦。艦名はライト兄弟の名にちなむ。1947年2月就役。主に海軍予備兵や海軍兵学校生の訓練に使用される。1956年、予備役編入。1959年、艦種が航空機運搬艦に変更。1963年、改装を経て指揮艦として再就役、洋上での待機任務に従事。1970年退役。

ライト〔小説〕

英国の作家M・ジョン・ハリスンのSF小説(2002)。原題《Light》。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞受賞(2003)。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「ライト」の解説

ライト

正式社名「株式会社ライト」。英文社名「Light」。サービス業。昭和48年(1973)設立。本社は静岡県熱海市水口町。アミューズメント機器販売・レンタル会社。伊豆周辺のホテル・旅館・飲食店にカラオケやゲーム機器の販売・レンタルを行う。業務用プログラムやホームページの作成などIT関連事業も展開。

出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ライト」の解説

ライト
Frank Lloyd Wright

1869〜1959
アメリカの建築家
合理的な平面計画,水平線を強調する安定感にみちた形態を実現し,現代建築運動の指導者のひとり。日本の旧帝国ホテルの設計者。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ライト」の解説

ライト

生年月日:1890年12月28日
アメリカの国際法・国際政治学者
1970年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

サーフィン用語集 「ライト」の解説

らいと 【ライト Right】

岸から見て左方向に崩れていく波をRightの波と言う。逆に右方向の波はLeftと言う。

出典 (株)デジサーフ、(株)セキノレーシングスポーツサーフィン用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内のライトの言及

【野球】より

…また,アメリカで生まれたといわれる遊びの中にも,ワナキャットone old catなど,野球の要素を含んだものがあり,結局,これらのボールとバットとベースを用いるゲームが集約され,19世紀前半にベースボールが成立したというのが現在の定説になっている。 初めは人数もまちまちでルールも単純だったが,1839年のA.ダブルデーを経て,45年カートライトAlexander Cartwrightにより,ニューヨークに最初の野球チーム〈ニッカーボッカー野球協会〉が編成され,同時に15条からなる〈ニッカーボッカー規則〉が定められた。その規則のおもなものは,(1)塁間は本塁から二塁,一塁から三塁までがそれぞれ42歩(正方形のフィールド),(2)21点を記録して勝負が決まる,(3)投手は下から投げる,(4)3人アウトで攻守交代,(5)判定はすべて審判が行い,アピールは許されないなどで,この規則によって今日の野球への第一歩がふみ出された。…

【マレーシア】より

…とくに1960年以降のラワン原木の伐採は,マレーシアの輸出産業振興政策にも合致し,急速な奥地山林の破壊をもたらした。やせたラテライト土壌に育つ森林は,ひとたび自然の状態を変えられると再生能力が低下し,低木とシダ類の下生えの二次林(ブルカーbelukar)や,丈の高い雑草(ラーランlalang)の土地と化し,生産性の高い農林業のできない土地が出現しつつある。
【住民】
 総人口の4/5が半島部に居住し,その半数強がマレー人である。…

【アメリカ美術】より

…オッペンハイムDennis Oppenheim(1938‐ ),スミッソンRobert Smithson(1938‐73),クリストなどのランド・アートLand Artは,砂漠や海岸などを造形の場に選び,クローズChuck Close(1940‐ )らのスーパーリアリズムも出現する。さらに表現そのものを拒否するものから,D.フレービンなどの蛍光による純粋視覚の試み(ライト・アート)まで多岐をきわめたが,70年代後半からエネルギーを失い,80年代初めに表現主義的な〈ニュー・ペインティングNew Painting〉が登場したが,新しい突破口にはなっていない。
[彫刻]
 初期には木彫肖像も作られていたが,本格的な彫刻は19世紀中期の,イタリアに学んだH.グリノーなどの新古典主義彫刻にはじまる。…

【グッゲンハイム美術館】より

…開設時よりグッゲンハイム財団によって運営されている。大胆な螺旋構造は,晩年のF.L.ライトの設計による。カンディンスキー,ブランクーシのコレクションなど,20世紀の抽象美術を中心とした常設展示のほか,意欲的な企画展を開いている。…

【室内装飾】より

…またル・コルビュジエを中心とする〈エスプリ・ヌーボー〉の運動や,ファン・ドゥースブルフの〈デ・スティル〉の運動は,この新しい室内装飾の方向をおしすすめた。アメリカではF.L.ライトが,〈形態が機能に従う〉という機能主義によって新しい室内装飾を開拓した。 このような発展をたどってきた近代の室内装飾は,もはやたんなる様式の陳列ではなく,なによりも実際の生活に即して室内をいごこちのよいものにすることが求められた。…

【住居】より

…やがて工業家たちのなかから,工場と従業員住居を一体として計画する新しい都市づくりが現れる。1850年にヨークシャーにつくられたソルテアSaltaire,79年にチョコレート工場主G.キャドベリーが建設したブーンビルBournville,88年にセッケン工場主レバーの建設したポート・サンライトPort Sunlightなどがイギリスにおける代表例である。アメリカでは寝台車製造工場主G.M.プルマンが建設したプルマンPullmanの町(1880),ドイツでも製鉄会社クルップによるクルップ・コロニーKruppkolonie(1905)などの例が見られた。…

【アメリカの息子】より

…アメリカの黒人作家リチャード・ライトの代表作で,アメリカ黒人文学をはじめて世界文学の水準にまで高めた意義をもつ。1940年刊行。…

【アメリカ文学】より

… 29年の大恐慌を境に,頽廃的ムードの中にも繁栄していた1920年代の社会は冷たく暗い幻滅感と危機感をたたえた社会へと変わり,社会的関心を第一とする作品が目につくようになる。ノリス的自然主義者スタインベックは《怒りの葡萄》(1939)で農民の窮境を叙事詩的に語り,コールドウェルは南部の貧しい白人を,J.T.ファレルは都会の不良少年を,黒人作家R.ライトは抑圧された黒人の姿を,それぞれなまなましく描いた。またT.ウルフやH.ミラーは自伝的作品によって原始的生命をもった個性への復帰を示した。…

【黒人文学】より

…この時期には,J.L.ヒューズ,カレンCountee Cullen,マッケーClaude McKay,トゥーマーJean Toomerら有能な小説家や詩人が輩出した。30年代の大不況期には左翼思想の影響が一段とつよまり,〈抗議小説〉派の雄R.ライトが登場する。彼の《アメリカの息子》(1940)その他の作品によってアメリカ黒人文学は一躍世界の注目をあびることになった。…

【遺伝学】より

…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…

【機会的浮動】より

…この集団が有限であることに起因する機会的な遺伝子頻度の変化を機会的浮動という。この結果,小さい集団では対立遺伝子の片方が消失し,遺伝子の固定が起こりやすく,これが変異の減退をもたらし,進化の上で重要な意味をもつということはすでにハーゲドールンA.L.Hagedornら(1921)によって指摘され,R.A.フィッシャー,ライトS.Wrightにより理論的に研究された。特にライトは1931年以後遺伝子頻度の機会的変動の進化における役割を明らかにし,後にその重要性が多くの生物学者に認識されるようになると,ライト効果Wright effectという言葉まで同義語として用いられるようになった。…

【近交係数】より

…ある個体においてある遺伝子座上の二つの遺伝子(相同遺伝子)が共通の祖先遺伝から由来する確率と定義される。最初ライトS.Wrightにより径路係数法を用いて結合する配偶子間の遺伝的相関と定義(1921)されたが,一般に理解しがたく,現在では上述のマレコーG.Malécotの定義(1948)が広く用いられており,Fまたはfの記号で示される。たとえば,いとこ結婚の結果生まれた子どもではF=1/16,またいとこ結婚では1/64である。…

【血縁係数】より

…共通の祖先をもつ2個体の間の血縁関係の強さを示す係数で,ライトS.Wrightにより導入されたもの(1922)。個体Iと個体Jの間の血縁係数は,遺伝子の作用が相加的(優性関係,相互作用がない)であると仮定したときの遺伝子型値間の相関係数であり,次式で与えられる。…

【遺伝学】より

…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…

【機会的浮動】より

…この集団が有限であることに起因する機会的な遺伝子頻度の変化を機会的浮動という。この結果,小さい集団では対立遺伝子の片方が消失し,遺伝子の固定が起こりやすく,これが変異の減退をもたらし,進化の上で重要な意味をもつということはすでにハーゲドールンA.L.Hagedornら(1921)によって指摘され,R.A.フィッシャー,ライトS.Wrightにより理論的に研究された。特にライトは1931年以後遺伝子頻度の機会的変動の進化における役割を明らかにし,後にその重要性が多くの生物学者に認識されるようになると,ライト効果Wright effectという言葉まで同義語として用いられるようになった。…

【近交係数】より

…ある個体においてある遺伝子座上の二つの遺伝子(相同遺伝子)が共通の祖先遺伝から由来する確率と定義される。最初ライトS.Wrightにより径路係数法を用いて結合する配偶子間の遺伝的相関と定義(1921)されたが,一般に理解しがたく,現在では上述のマレコーG.Malécotの定義(1948)が広く用いられており,Fまたはfの記号で示される。たとえば,いとこ結婚の結果生まれた子どもではF=1/16,またいとこ結婚では1/64である。…

【血縁係数】より

…共通の祖先をもつ2個体の間の血縁関係の強さを示す係数で,ライトS.Wrightにより導入されたもの(1922)。個体Iと個体Jの間の血縁係数は,遺伝子の作用が相加的(優性関係,相互作用がない)であると仮定したときの遺伝子型値間の相関係数であり,次式で与えられる。…

※「ライト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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