神瀬谷村(読み)こうのせだにむら

日本歴史地名大系 「神瀬谷村」の解説

神瀬谷村
こうのせだにむら

[現在地名]球磨村神瀬こうのせ

北流する球磨川に沿った村としては、人吉藩領で最も北端に位置する。東は標高八二七・一メートルの杣鼻そまはな山がそびえ、南も山地で、小河川と球磨川の合流点がやや低地をなす。南は大瀬谷おおせだに村、東はわたり村、北は熊本藩領八代上松求麻かみまつくま村のうち中津道なかつみち(現坂本村)に接し、西の球磨川対岸は熊本藩領葦北あしきた郡に接する。建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内高野瀬之村さつし廿束、あつかミ三帖、いた百、くす五升」とあり、永吉ながよし庄に属した。山川の雑物を貢納しており、球磨川とその支流および山での生活が中心であったと思われる。

慶長国絵図に「神瀬村」として二三石九斗余、「神瀬の内 弓のまた 田なし」「神瀬の内 かぢまやしき 田なし」が記され、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳に「神瀬谷」として、本田高二九石九斗余・新田畑高一五四石五斗余が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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