神田孝平(かんだたかひら)(読み)かんだたかひら

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

神田孝平(かんだたかひら)
かんだたかひら
(1830―1898)

明治時代の啓蒙(けいもう)主義者、政治家。文政(ぶんせい)13年9月15日、美濃(みの)国(岐阜県)不破(ふわ)郡岩手村(現、垂井(たるい)町)に生まれる。孝平は通称、名は孟恪。淡崖(たんがい)と号した。長じて京都ついで江戸で儒学を修め、幕末の外国船来航を契機蘭学(らんがく)を学び、長崎にも遊学した。1862年(文久2)幕府が設立した蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授方出役などに就任したが、明治維新を経て新政府の官僚となった。当初徴士(ちょうし)から会計官権判事(ごんはんじ)、公議所副議長などの役職を歴任し、のちに兵庫県令、元老院議官、文部少輔(しょうゆう)、貴族院議員を務め、男爵となる。とくに1874年(明治7)設立の明六(めいろく)社に加わり、『明六雑誌』に多くの論稿を発表するなど、啓蒙家としての活動が知られるとともに、地租改正の必要を主張した「田租改革建議」(1870)の起草など、注目すべき意見をもっていた。しかし、その立場は明治政府の啓蒙主義の枠内にとどまっていた。1877年には柳楢悦(やなぎならよし)とともに総代となって東京数学会社をおこした。明治31年7月5日没。

[石塚裕道 2016年8月19日]

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