日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳楢悦」の意味・わかりやすい解説
柳楢悦
やなぎならよし
(1832―1891)
明治期の数学者。海軍水路事業の組織者。伊勢(いせ)(現、三重県)津藩士の子として江戸柳原の藩邸に生まれる。字(あざな)は芳太郎、通称総五郎。同藩村田恒光(むらたつねみつ)(?―1870)に和算を学び、1850年(嘉永3)『新巧算法』を師と分担して著す。藩命により長崎海軍伝習所に派遣され、洋算に基づく測量・航海術を習得し、帰藩後、伊勢湾を測量した。1869年(明治2)イギリス軍艦が内海沿岸測量をしようとするのに対し、自力測量を計画した政府に起用され、水路測量に着手。1871年水路局少佐、1875年海軍大佐・水路権頭(ごんのかみ)、1880年海軍少将・水路局長に進み、一貫して水路誌の整備に努めた。1888年元老院議官、1890年貴族院議員となった。他方、1877年神田孝平(たかひら)とともに総代となって東京数学会社をおこし、和算・洋算家が結集したが、1884年東京数学物理学会への改組前後に、柳ら海軍系や和算派は脱退した。在会中、柳は和算の洋算による解説を試みている。著書に『海国水路志』『海人の捨縄』等がある。
[石山 洋]