1873年(明治6)に結成された当代一流の洋学者たちによるわが国最初の学術結社。アメリカから帰国の森有礼(ありのり)の首唱になり、当初の社員はほかに西村茂樹(しげき)、津田真道(まみち)、西周(あまね)、中村正直(まさなお)(敬宇)、加藤弘之(ひろゆき)、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、福沢諭吉(ゆきち)、杉亨二(こうじ)、箕作麟祥(りんしょう)の10人で発足、のち津田仙(せん)、神田孝平(たかひら)らが加わる。「意見を交換し知を広め識を明にする」(明六社制規)を目的として毎月2回会合し、研究討論や講演会をもった。またそれらを発表するために、わが国最初の啓蒙(けいもう)雑誌といえる『明六雑誌』(1874年3月創刊、発行部数約3200)を発行し、政治、経済、外交、社会から言語、宗教、教育、科学に至る広範な分野に、西洋文明の摂取のための言説を展開し、文明開化の思潮を指導した。しかし社員のほとんどが官僚学者であって、政府の開化政策を先導する役割を果たした。したがって、政府の専制を批判して登場した民撰(みんせん)議院設立論に対しては、共通して時期尚早論で対処した。75年に新聞紙条例改定、讒謗律(ざんぼうりつ)制定で言論弾圧が強化されると、自主的に廃刊を決議した(1875年11月、第43号が最終号)。明六社そのものはサロンとして1910年(明治43)ごろまで存続するが、その啓蒙的役割は雑誌廃刊とともに終わったといえよう。
[広田昌希]
『西田長寿著『明六雑誌解題』(『明治文化全集雑誌編』所収・1929/1955・日本評論社)』▽『宮川透著『近代日本思想の構造』(1956・青木書店)』▽『神奈川大学人文学研究所編『「明六雑誌」とその周辺 西洋文化の受容・思想と言語』(2004・御茶の水書房)』
明治初年の開明的知識人の結社。1873年7月アメリカから帰国した森有礼が,西洋の知識人のように〈ソサヱチー〉を組織して,協力して学問を進め,公衆を啓蒙することを提案,同年秋には,森を社長とし,西村茂樹,津田真道,西周,中村正直,加藤弘之,箕作秋坪,福沢諭吉,杉亨二,箕作麟祥が加わって活動を始め,この年明治6年にちなんで〈明六社〉と称した。発足当初から活動の中心だった月2回の定例会ではやがて〈演説〉が行われるようになり,これは75年2月からは公開されて多くの聴衆を集めた。明六社ではなお,1874年3月機関誌《明六雑誌》を創刊,翌年11月の停刊までに43号を刊行した。この間当代一流の知識人の中から社員や客員として加わる者が続き,同時代の思想に大きな影響を及ぼすにいたったが,75年6月の讒謗律(ざんぼうりつ)公布と新聞紙条例の改定は明六社にも大きな衝撃を与え,《明六雑誌》続刊の是非をめぐって社論が分裂し,同誌は11月をもって停刊,その後も続けられた月例会は社員だけの社交的な会合に変質し,明六社の学術的活動は79年創立の東京学士会院に継承された。
明六社発足時の社員の多くが下級武士や庶民の出身であり,また大方がかなり早く洋学に志し,その際しばしば家を捨て藩を脱する行為をあえてしていた。彼らはこの洋学の知識によって幕府の開成所や外国方に登用され,また維新前に使節や留学生として欧米諸国に渡った。彼らはこのように西欧の衝撃に動揺する日本の,社会的にも思想的にもマージナルな背景のもとで思想を形成し,旧体制の秩序とイデオロギーから同時代ではいち早く離脱した新しいタイプの知識人だった。彼らの多くは開国と統一国家の形成を構想しはじめていたが,幕府側についていたため,その構想はかえって明治新政府によって実現されることになった。創立時の社員は福沢のほかはすべて新政府に出仕したが,新政府に対する彼らの態度には支持と批判とが併存しており,官吏だったがその立場を離れて明六社を組織し,政府の政策をも含めて同時代を自由に論評した。新政府によってみずからの体制変革の構想を先取りされた彼らは,新政府の立法による政治機構と社会制度の変革を支持し,言論活動の対象を政治外の領域に限り,政府の政策を論じる場合にも,もっぱら思想の問題としてとりあげた。彼らは〈文明開化〉の政策の構造的な歪みをつき,新しい立法と持続する古い意識や行動様式との乖離(かいり)を批判,思考様式やエートスの根本的な変革を主張した。彼らは新政府が創出した国民国家の機構という外枠を内側から支える〈ネーション〉の形成を志向したといえよう。ただ,福沢をほとんど唯一の例外として,彼らは政府機構から独立した知的活動の拠点を築かず,自前の知的活動の方法を十分に開発しえなかったため,その活動は比較的短命に終わった。
執筆者:松沢 弘陽
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明治初期の開明的知識人の結社。1873年(明治6)7月アメリカから帰国した森有礼(ありのり)を中心に設立。社長に森,社員は西村茂樹・津田真道(まみち)・西周(あまね)・中村正直・加藤弘之・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)・福沢諭吉・杉亨二(こうじ)・箕作麟祥(りんしょう)で,月2回の集会と機関誌「明六雑誌」を刊行。彼らは洋学の知識をもって明治新政府に出仕するとともに啓蒙活動を行った。発足時の社員のうち民間人は福沢だけであった。「明六雑誌」は75年11月言論取締りの法に抵触することを警戒して終刊とした。主要社員は79年創立の東京学士会院(日本学士院の源流)の会員に推薦された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…通常考えられているように,文明開化は廃藩置県を画期として本格化するといってよかろう。
[啓蒙思想]
文明開化を思想の面で指導したのは,明六社(1873年発起。74‐75年存続)の人々に代表されるいわゆる啓蒙思想家である。…
…明六社の機関誌。1873年7月に設立された明六社の月2回の例会における講演内容の公表を目的として,74年3月創刊された。…
※「明六社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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