神門村(読み)みかどむら

日本歴史地名大系 「神門村」の解説

神門村
みかどむら

[現在地名]南郷村神門

水清谷みずしだに村の西にあり、北は山三やまさんヶ村(現西郷村)。東流する小丸おまる川が湾曲する場所に位置する。「日向記」によると、長禄元年(一四五七)財部たからべ(現高鍋町)土持氏を攻撃して勝利した伊東氏は、財部城をはじめとして神門城など一〇城を知行することとなったという。同書は文明一六年(一四八四)に伊東祐国が飫肥おび(現日南市)を攻撃した際に率いていた二三外城衆のなかに神門を載せる。天文二年(一五三三)伊東氏の内訌を鎮めて伊東祐清(義祐)都於郡とのこおり(現西都市)城主となるが、領内は弟祐吉に与同する勢力によって不安定であった。この祐清の擁立に反対して蜂起した米良氏の山裏一揆のなかに神門衆がおり、同三年二月のたか(現木城町)での戦で一揆側が敗れた(日向記)。永禄一一年(一五六八)頃の伊東氏分国四十八城のなかに田爪たづめ借屋かりや・神門三方領主として小崎右近将監がみえる(同書)。神門城は星原ほしばる城ともよばれ、城跡小路こうじにある。


神門村
ごうどむら

[現在地名]佐倉市神門・大作おおさく一丁目

木野子きのこ村の南に位置。東金とうがねに至る道と千葉佐倉道が交差する交通の要地であった。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高二〇一石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高二二〇石余、新田改出高三石余、夫役永五九一文余・野銭永三一九文・林下刈代金二分・栗代永八〇文・山銭鐚一貫六一一文。享和期(一八〇一―〇四)の佐倉七牧付村々高帳などによれば柳沢やなぎさわ牧の牧付村で、勤高二二〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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