財部(読み)たからべ

日本歴史地名大系 「財部」の解説

財部
たからべ

現高鍋町を中心とした小丸おまる川の南岸地域に比定され、室町時代には財部と記載される例が多く、「和名抄」に記載される那珂郡於部おべ郷は財部の誤写とする説がある。戦国末期に至り高鍋の表記が現れる。享保五年(一七二〇)の財部大明神縁起(町立高鍋図書館蔵)によれば、土持氏一族の財部城主財部直綱に始まる一族が、応安五年(一三七二)以来財部大明神を尊崇してきたとされ、土持氏の所領伝承を伝えている。長禄元年(一四五七)七月、あがた(現延岡市)の土持氏は南下し財部城に陣を取り、伊東祐尭ははち久保くぼに陣を取り合戦となったが、伊東方の勝利となり、土持氏へ新名爪にいなづめ(現宮崎市)六〇町を与える代りに、財部、高城たかじよう(現木城町)日知屋ひちや(現日向市)門川かどがわ(現門川町)など一〇ヵ所の城を知行することとなった。財部には落合民部少輔を地頭に任じた。文明一二年(一四八〇)伊東祐国が飫肥おびを攻めた際、財部は佐土原さどわら(現佐土原町)などとともに祐国の直轄軍に編制されていた。天文二年(一五三三)の伊東祐充の早世後の伊東氏の家督継承をめぐる内訌では伊東祐清(義祐)を財部に蟄居させる相談があったが、財部は祐清を援助し、落合民部少輔を中心にした評議ののち都於郡とのこおり(現西都市)を攻め、祐清が伊東氏の家督を継承している(日向記)。当時の伊東氏と給人の関係をみると、室町期の荒武彦左衛門恩給分目安(荒武文書)によれば、都於郡荒武あらたけ(現西都市)を本貫とする荒武氏は「たからへ」に現作一町三反余(分米四石六斗)の門を給地として確保していた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「財部」の意味・わかりやすい解説

財部
たからべ

鹿児島県東部、曽於郡(そおぐん)にあった旧町名(財部町(ちょう))。現在は曽於市の北部を占める。旧財部町は1926年(大正15)町制施行。2005年(平成17)大隅(おおすみ)町、末吉(すえよし)町と合併、市制施行して曽於市となった。旧財部町域は霧島山の南東麓(ろく)でシラス台地が広がり、大淀(おおよど)川の支流が開析(かいせき)している。JR日豊(にっぽう)本線が通じる。歴史は古く、溝ノ口洞穴(みぞのくちどうけつ)からは縄文土器が出土し、『和名抄(わみょうしょう)』に財部郷の地名がみえる。竜虎城(りゅうこじょう)は南北朝から戦国時代に争奪が繰り返された山城(やまじろ)。畜産を主軸とした水稲、野菜、タバコなどの農業や林業が盛んである。県天然記念物の溝ノ口洞穴や大川原峡、竜虎城跡の城山公園など史跡や景勝地も多い。

[平岡昭利]

『『財部町郷土史』(1972・財部町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「財部」の意味・わかりやすい解説

財部
たからべ

鹿児島県東部,曽於市北部の旧町域。大淀川の上流域,都城盆地の一角をなし,北東で宮崎県都城市に接する。 1926年町制。 2005年大隅町,末吉町の2町と合体して曽於市となった。主産業は農業で,米,茶,葉タバコ,野菜を産する。畜産では肉牛飼育と養豚が盛ん。溝之口洞穴や大川原狭,財部城 (竜虎城) 跡の城山公園など景勝地が多い。都城市との経済的結びつきが強い。

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改訂新版 世界大百科事典 「財部」の意味・わかりやすい解説

財部 (たからべ)

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