日本歴史地名大系 「稲付村」の解説 稲付村いねつけむら 東京都:北区稲付村[現在地名]北区東十条(ひがしじゆうじよう)六丁目・赤羽西(あかばねにし)一―六丁目・赤羽(あかばね)二丁目・赤羽南(あかばねみなみ)一―二丁目・西が丘(にしがおか)一―三丁目・上十条(かみじゆうじよう)四丁目赤羽根(あかばね)村の南にあり、東は下(しも)村・神谷(かみや)村。日光御成道がほぼ南北に通る。文安五年(一四四八)一一月日の熊野神領豊島年貢目録(熊野那智大社文書)に「三百文 上岩ふちいねつき」とみえ、紀伊国熊野那智社に年貢を負担する人々の一人として当地の住人がいた。またこれによって当地が岩淵(いわぶち)郷に属していたことが知られる。戦国時代初期には扇谷上杉氏によって稲付城(現静勝寺地)が築かれ、入間川対岸地域に対する防衛拠点として機能したとみられる(松陰私語)。 稲附村いねつけむら 長野県:上水内郡信濃町稲附村[現在地名]信濃町大字大井(おおい)現信濃町の西南部。東は宮(みや)ノ越新田(こししんでん)村と枝郷の石橋新田(いしばししんでん)村、南は枝郷の高山新田(たかやましんでん)村、西は霊仙寺(りようせんじ)山腹、西北は板橋新田(いたばししんでん)村、北は御領新田(ごりようしんでん)村に接する。霊仙寺山麓の東北端に位置し、北方へ緩傾斜する。北国脇往還の脇道坂中(さかなか)道に沿った村で、字中町(なかまち)・古町(ふるまち)を中心に集落をなす。天正八年(一五八〇)一二月二九日付城昌茂あての武田勝頼宛行状(「古文書」内閣文庫蔵)に、沼津在陣中の軍功を賞して「仍信州河北之内稲附・辻屋分百貫文之所出置候」とみえるのが初見。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by