信濃町
しなのまち
面積:一四八・二一平方キロ
上水内郡の東北部、信越国境の深雪地帯。北と北東は県境をもって新潟県中頸城郡妙高高原町と同妙高村、東は斑尾山頂をもって飯山市・下水内郡豊田村と本郡三水村、南は三水村と牟礼村、西は戸隠村に接する。
町の東北部は斑尾山(一三八一メートル)・袴ヶ岳(一一三五メートル)の山麓が延び、その間に堰止湖の野尻湖があり、古海盆地はじめ小盆地が散在する。西北部には黒姫山(二〇五三メートル)、西南部に飯縄山(一九一七・四メートル)の支峰霊仙寺山(一八七五メートル)がそびえ、その東山麓に標高六五〇―七五〇メートルの高原性の平地が展開する。戸隠山中に源を発し、黒姫・霊仙寺の山峡を東流する鳥居川は柏原・古間の間で右折して南下し、野尻湖から西へ流れ出た池尻川は、六月地籍で右折して北流し、信越国境の関川に注ぐ。黒姫・霊仙寺山中から発する大小の川は、あるいは鳥居川に、あるいは池尻川に合流する。
集落は中央部の柏原、北の信濃尻、東南の古間、西南の富士里四地区に、道路の沿線を中心に散在する。
野尻湖北西岸の湖底や湖畔から、一万―二万年前のナウマン象や大角鹿などの骨と旧石器とが出土し、縄文時代の遺跡も多い。
古代には、信濃の国府から越後の国府に至る官道東山道の支道がこの地を通っており、沼辺駅が置かれた。この道は中世にも利用され、野尻の地は信越往来の要地であった。平安末期からは、修験の山、飯縄や戸隠への山道も通じていた。この地方は、中世には芋川庄に属し、修験の行場霊仙寺は鎌倉後期には開かれていた。
信濃町
しなのまち
[現在地名]西区靭本町一丁目・西本町一丁目
油掛町の南にあり、東は西横堀川、南は阿波堀川、西は永代浜。町の南の道筋は西横堀川に信濃橋が架かって長浜町(現東区)に続き、阿波堀川には東から幸橋・新橋・下奈良屋橋が架かって奈良屋町と結ばれる。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では下奈良屋橋北詰までが「南とひた町」、それ以西が「ふきや町」と記される。延宝八年(一六八〇)に北富田町が瀬戸物町と改称された(同年瀬戸物町水帳「西区史」所収)ことを考えると、当町も同年に南富田町とふきや町を併せて信濃町に改称されたと思われる。
信濃町
しなのまち
[現在地名]米沢市東一―三丁目・駅前一丁目
城外の東方外れに位置する下級家臣屋敷町。城下の東端今町から松川を渡り、二町余で当町入口に至る。片子・綱木への街道(上片子道)に沿う両側町。当町をはじめ城外東方から南方にかけての花沢村域に開かれた屋敷町に配置された下級家臣は原方衆と称し、屋敷町を原方町と通称した。花沢村に開かれたのは当町のほか小国町・中町・片町・窪町・上ノ町・鉄砲町・御弓町の計八町で、併せて花沢八町とも称した。原方町は慶長六年(一六〇一)上杉氏の米沢入部時、城地狭小のため多数の家臣団を城地に配置できなくなり、郭外の南外れの原野(南原)から松川東の原野(東原)一帯を町割して下級家臣を配置したもので、彼らは荒地を開墾して半農半士の郷士集落を形成した。
信濃町
しなのちよう
上京区上長者町通千本東へ北側
南は上長者町通、北は仁和寺街道、町の東寄りを土屋町通が通る。平安京大内裏「大蔵省」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
近世の聚楽第遺構では西部外郭にあたり、当町から北隣の西富仲町にかけて鍋島信濃守勝茂の邸宅があって、町名の起源となったという(坊目誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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信濃〔町〕
しなの
長野県北部,新潟県との県境にある町。 1956年古間村,信濃尻村,信濃村が合体して町制。黒姫山,妙高山,斑尾 (まだらお) 山などに囲まれる。標高 700~900mの高冷地に集落があり,冬季の積雪量が多い。中心集落の柏原は近世北国街道の宿場町として発展。小林一茶の生誕,終焉の地で,一茶が最晩年を過した土蔵は史跡に指定。柏原と古間は近世からの信州鎌の生産で知られる。トウモロコシ,アマチャは特産。東部の野尻湖や西部の黒姫山山麓部では別荘地やスキー場が開発されている。町域の一部は妙高戸隠連山国立公園に属する。 JR信越本線,国道 18号線が通る。面積 149.30km2。人口 7739(2020)。
信濃町
しなのまち
東京都新宿区南東部の地区。 JR信濃町駅北側にあたり,明治神宮外苑の入口。地名は江戸時代に永井信濃守の別邸があったことに由来。慶應義塾大学病院がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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