稲葉郷(読み)いなばごう

日本歴史地名大系 「稲葉郷」の解説

稲葉郷
いなばごう

現在の瀬戸せと滝沢たきさわ宮原みやばら助宗すけむね寺島てらじま堀之内ほりのうち谷稲葉やいなば音羽おとわ町辺りに比定される中世の郷。郷内には清水きよみず寺・高山こうざん寺・荻間おぎま天王社・諏訪社などがあった。現山梨県塩山市の放光ほうこう寺が所蔵する嘉慶二年(一三八八)一一月一〇日に書写された大般若経巻六〇〇の奥書に「志太郡大津新庄稲葉郷」とあり、当郷内の清水寺西谷において僧猷尊が書写している。応永二年(一三九五)一〇月頃仲祐は明王みようおう(現神奈川県鎌倉市)快季から譲られた明王院寺務職および当郷を含む寺領などを京都青蓮しようれん院門跡(尊満)領として寄進したが、太政大臣足利義満の子息(義円、のちの将軍義教)の青蓮院入室に際し、寄進の契約を再確認している(同一〇年六月一八日「仲祐契状案」青蓮院文書)

稲葉郷
いなばごう

[現在地名]小山市稲葉郷・城山町しろやまちよう二―三丁目・本郷町ほんごうちよう一―三丁目・花垣町はながきちよう一―二丁目・若木町わかきちよう一―三丁目・城東じようとう三丁目

小山宿の北、おもい川左岸に位置し日光街道が南北に通る。慶長年中(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)下総古河藩領、延宝三年(一六七五)幕府領、天和二年(一六八二)再び古河藩領、貞享二年(一六八五)幕府領、宝永三年(一七〇六)旗本遠山領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報