日本歴史地名大系 「小山市」の解説 小山市おやまし 面積:一七三・八〇平方キロ県南端近くに位置し、南東部は県境で茨城県下館市・結城市・猿島(さしま)郡三和(さんわ)町に接する。南は下都賀(しもつが)郡野木(のぎ)町、西は同郡藤岡(ふじおか)町・大平(おおひら)町と栃木市、北は下都賀郡国分寺町・河内(かわち)郡南河内町・芳賀(はが)郡二宮(にのみや)町に接する。市域東端を鬼怒川が、中央西寄りを思(おもい)川が、西端を巴波(うずま)川がそれぞれ南流し、おおむね平坦な地で鬼怒川と思川との間に台地が形成される。古来より水陸の交通の要地で、現在では国道四号が南西から北東に縦貫し、東西に国道五〇号が抜け、茨城県と群馬県を結ぶ。市域中心部から北西の栃木市への道もある。ほぼ国道四号に沿ってJR東北新幹線・東北本線が通り大動脈となっている。小山駅からはJR水戸線が東へ、JR両毛線が北西に分岐する。〔原始・古代〕先土器時代の遺跡として中久喜の八幡根東(なかぐきのやはたねひがし)遺跡・出井の本郷前(いでいのほんごうまえ)遺跡・鷹(たか)ノ巣前(すまえ)遺跡などが知られ、いずれも台地上に位置している。縄文時代の遺跡は市域全体に分布するが、市域南部に前期の遺跡が多く、後期遺跡は北部に多く分布するという特徴がある。また思川水系は各期を通じて遺跡が多い。乙女北浦(おとめきたうら)遺跡では前期から後期にわたる縄文時代の村が発掘され、犬の埋葬例や晩期の共同墓地も発見された。弥生時代後期のものとして乙女北浦遺跡で一軒、亀田(かめだ)遺跡で二軒の竪穴住居跡が発掘されている。後期後半の土器破片は市内のほぼ全域から出土している。古墳が多く、昭和一六年(一九四一)の地名表には四一六、同五二年の調査では二三四という(小山市史)。川筋単位に幾つもの古墳群がある。思川の西方、巴波川との間の寒川(さむかわ)古墳群は五世紀の円墳鶴巻山(つるまきやま)古墳に始まり、七世紀初め頃の観音塚(かんのんづか)古墳に至る前方後円墳を主体とする大型古墳群である。思川東岸の間々田(ままだ)地区にはかつて一八〇基もの古墳があったといわれるが際立ったものは少ない。姿(すがた)川と思川の合流点の北側には全長一二三メートルの琵琶塚(びわづか)古墳、全長一一六・八メートルの摩利支天塚(まりしてんづか)古墳があり、いずれも前方後円墳。これらの北約一キロに甲塚(かぶとづか)古墳、姿川を隔てて本郷(ほんごう)古墳があり、西方には飯塚(いいづか)古墳群が展開する。古墳には埴輪を伴出するものもあり、飯塚古墳群に近い河岸段丘崖には三基の埴輪窯跡が確認されている。律令制下の当市域は大部分が都賀郡に属し、一部が寒川郡に属していたと思われる。「和名抄」都賀郡の小山郷は当市中心部、生馬(いくま)郷は生駒(いこま)に比定される。寒川郡真木(まき)郷を真本(まもと)郷の誤記とし間々田周辺に比定する説がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小山市」の意味・わかりやすい解説 小山〔市〕おやま 栃木県南部,下野平野にある市。 1954年小山町と大谷 (おおや) 村が合体して市制。 63年に美田 (みた) 村,間々田 (ままだ) 町,さらに 65年桑絹 (くわきぬ) 町を編入。 12世紀中頃,中心市街地の小山は小山政光が祇園城を築いたといわれ,城下町として発達。天正 18 (1590) 年の廃城後は,日光街道の宿場町,近在農村の市場町,思川水運の河港 (乙女河岸) として繁栄。明治以降,東北本線,水戸線,両毛線,国道4号線,50号線などが交差し,交通の要衝に位置したため,県南有数の商工業都市に成長。第2次世界大戦前から発達していた製粉,製糸,製菓業に加え,戦後は金属,電気機械,通信機工業などが進出。市北東部の農村 (旧桑村,絹村) でつくられる結城紬 (ゆうきつむぎ) の製織法は重要無形文化財。史跡の琵琶塚古墳と摩利支天 (まりしてん) 塚古墳,小山氏城跡などがある。東北新幹線が通る。面積 171.75km2。人口 16万6666(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by