立子山村(読み)たつごやまむら

日本歴史地名大系 「立子山村」の解説

立子山村
たつごやまむら

[現在地名]福島市立子山

阿武隈川右岸、伊達郡大波おおなみ村の南に位置。古くは竜子山と記された。伊達郡に属し、東は同郡青木あおき(現飯野町)、南は飯野いいの(現同上)北西信夫しのぶ渡利わたり村、西の阿武隈川対岸は信夫郡金沢かねざわ村・浅川あさがわ村・田沢たざわ村。耕地・集落はわずかに開けた山間に点在し、阿武隈川は阿武隈峡とよばれる深い峡谷を形成して北流する。渡利村境の大沢おおさわから葭田よしだに入り、二つに分れて入川いりかわから疣石いぼいし峠を越え沼尻ぬまじり本内もとうち田屋たやを通り、金山かねやまから青木村へ至る道と、ほぼ阿武隈川沿いにじやくうち春田はるた御代手みよてを経て目細内めぼそうちから飯野村へ通じる道がある。

天正一〇年(一五八二)から同一二年の間と思われる七月一五日の蘆名盛隆覚書(伊佐早文書)に「竜子山」とみえる。同一三年東安達の大内定綱と伊達政宗の間に戦端が切られ、政宗は伊達成実の兵を当地城に進め、定綱を攻めて小浜おばま(現岩代町)を奪取し、翌一四年には二本松城の畠山国王丸を攻め降した(八月五日「最上義光書状」伊達家文書など)。政宗は内応した遊佐源左衛門・氏家新兵衛など畠山氏の旧臣に当地などを与え、同一四年一一月一四日の二本松配分日記(同文書)には「たつこ山」とみえ、地内にはなかの内(仲ノ内)・はたけ中(畠中)・杉の内・とちくほ(栃久保)・たけの内(竹ノ内)・こまこめ(駒込)・ちやくの内(若ノ内)・とうてはたけ(堂手畠)・とうにし(東西)などの地名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報