飯野村(読み)いいのむら

日本歴史地名大系 「飯野村」の解説

飯野村
いいのむら

[現在地名]飯野町飯野・明治めいじ

女神めがみ川沿岸に位置し、南は安達郡外木幡そとこはた(現東和町)。女神川左岸の集落が町場を形成しているが、同川縁辺は低地丘陵地帯。中央を東西に二本松と川俣かわまた(現川俣町)を結ぶ街道(通称二本松街道)が走る。当地で北行して福島宿へ至る街道(通称福島街道)、南東行して針道はりみち(現東和町)へ至る街道(通称針道街道)、南行して小浜おばま(現岩代町)へ至る街道(通称小浜街道)が分れ、交通の要衝であった。当地の大宮おおみや神社の神饌は飯塚いいつか建野たてのの二地区から納められたといい、一字ずつとって村名としたという(信達二郡村誌)。隠津島神社縁起(木幡山志)には「飯櫃」とみえる。大永七年(一五二七)一〇月二三日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「内谷彦四郎より売地、小手之内、飯野之郷之内、源三郎在家一宇不残、年貢八貫文之所」とあり、高成田蔵房は内谷氏から買得した飯野郷のうち源三郎在家を稙宗から安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳には伊達東根だてひがしねのうちとして「いゝの」がみえ、段銭は四六貫五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では伊達氏の家臣として飯野孫衛門がみえる。


飯野村
いいのむら

[現在地名]茂木町飯野

河井かわい村の東、那珂川右岸に位置。中央をさか川が大きく蛇行しながら東流し、東端で那珂川に合流する。東は常陸国上伊勢畑かみいせはた(現茨城県東茨城郡御前山村)と接し、逆川に並行して茂木から水戸へ通じる街道が通る。文和二年(一三五三)六月一〇日の明阿茂木知貞譲状写(茂木文書)によると、庶子知久に譲られた地に「東茂木郡内飯野村 、同河口・井河瀬両村」がある。知久の子朝音は嫡家を継いだので飯野も茂木氏嫡統に伝領された。その後没収されたらしく、正長元年(一四二八)一二月二七日に足利持氏から「東茂木保内林・飯野両郷」を勲功の賞として宛行われ(「開東公方足利持氏御判御教書」同文書)、同日付で結城基光に与えた上杉憲実施行状(同文書)が出されている。河口かわぐち井河勢いがせは小字として残り(伊河瀬と表記)、康安二年(一三六二)の心蓮譲状写(同文書)にも「茂木郡東西内飯野郷・河口郷并井河瀬・檜山村」とみえる。


飯野村
いいのむら

[現在地名]佐倉市飯野・飯野町・鹿島干拓かしまかんたく

土浮つちうき村の南、鹿島川河口右岸に位置。佐倉道さくらみち印西いんざい方面と佐倉城下を結ぶ道に由来する。印旛いんば沼に面して殿称でんしよう河岸があり、江戸時代には佐倉田さくらた町の吉田よしだ河岸(田町河岸)臼井田うすいた町の河岸を結んだ。天正二年(一五七四)九月吉日の千葉氏黒印状(海上八幡宮文書)にみえる飯野兵介は、当地を名字の地とする千葉胤富の家臣と考えられる。慶長九年(一六〇四)八月二六日に加藤作兵衛・安井理右衛門・池上太郎右衛門・吉田小平治によって検地が行われた。検地帳の文政七年(一八二四)写の表紙には「久野民部少輔様御代御縄」として印旛郡飯野村御縄帳(志田家文書)とあり、上田五反余・中田三町二反余・下田五町三反余、上畑三反余・中畑九反余・下畑五町六反余、屋敷三反余。


飯野村
いいのむら

[現在地名]温泉町飯野

竹田たけだ村の南にある。岸田きしだ川の支流照来てらぎ川の中・下流部を占め、東は桐岡きりおか村、南は塩山しおやま村。享保一二年(一七二七)改の二方郡村高免社帳(安達家文書)は当村の枝郷を七ヵ所とする。ただし各枝郷の名はあげておらず、天明三年(一七八三)の寺社分限改言上帳(村尾家文書)片岡かたおか殿村とのむら的場まとば藤の尾ふじのお虫谷むしたに宮垣みやがきの六枝郷を書上げている。中世には温泉庄のうちで、文亀三年(一五〇三)二月吉日の飯野名四分一帳(北村文書)には「温泉庄之内飯野名」とあり、「むし谷」などの地名がみえ、飯野名の田畠分米、春なし銭などが注進されている。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「いゝのゝ村」「との村」とみえ、殿村には「志け安新左衛門殿」や中井殿が住し、飯野村にも川崎丹後殿以下、川崎・北村・山本・田中・中嶋などの名字をもつ者たちが住していた。


飯野村
いいのむら

[現在地名]白根町飯野

甲府盆地西部、御勅使みだい川扇状地のほぼ中央部に位置し、東は在家塚ざいけつか村、南は桃園ももその(現櫛形町)、西は飯野新田、北は百々どうどう村。天正一〇年(一五八二)一二月三日横打半右衛門尉は本領として二七貫一〇〇文余を安堵され(徳川家印判状写「古文書雑集」若尾資料)、そのなかに「佐藤右近分飯野内七貫五百文」が含まれる。また同二〇年二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)によれば、当地には久遠くおん寺末寺の妙善みようぜん寺があり、二九五坪分の坪銭を免除されていた。

慶長古高帳では高四七六石余、幕府領、ほかに谷宮領一石余がある。延宝九年(一六八一)徳島とくしま堰下の新田畑検地では上毛田二反余・中毛田一町六反余・下毛田四町一反余・下々毛田二町二反余、上毛畑一畝余・中毛畑六畝余・下毛畑一町一反余・下々毛畑一町五反余、屋敷三反余が新田畑として把握され(「飯野村徳島堰下新田畑検地帳」県立図書館蔵)、このほか中畑七畝余・下畑五反余・下々畑一町一反余が田となっている(「徳島堰下畑成田検地帳」同館蔵)


飯野村
いいのむら

[現在地名]河北町飯野

追波おつぱ湾に注ぐ北上川(追波川)の右岸に位置し、北上川は村南方で南流から東流に大きく湾曲する。南は小船越こふなこし村、北は大田おおた(現桃生町)。丘陵南麓に集落が点在し、新田しんでん本地ほんち吉野よしのなどがある。吉野は文永七年(一二七〇)六月一三日の関東下知状(山内首藤家文書)に「陸奥国桃生郡内吉野村」とみえ、鎌倉幕府は山内時業の文応元年(一二六〇)七月八日の譲状などに任せて、その娘藤原亀鶴に同村の地頭職などを安堵している。元亨四年(一三二四)三月二九日、尼いくわん(亀鶴)は、「ミちの国もんのうのこほりのうちよしのゝむら」の地頭職などを、娘の子くまつる(時通)を養子として譲っており、同年六月二一日、幕府より安堵されている(「尼いくわん譲状」同文書)


飯野村
いいのむら

[現在地名]藤岡町飯野

はざま村・石飛いしとび村ともに現町域の中央に位置する。字辻戸つじどには岩村いわむら道と明智あけち道が通り、近世には宿屋もあった交通の要衝である。縄文時代のひらA・B遺跡、釜下かましたA・B・C遺跡、向屋下むこやげ遺跡、下貝戸しもがいと遺跡がある。字辻戸のハングイジと通称される位置に削平地があり、南面には空堀がある。麓の林宗りんそう寺境内には六基の宝篋印塔と五輪塔がある。


飯野村
いいのむら

[現在地名]板倉町飯野

利根川と谷田やた川の間に立地し、東は大久保おおくぼ村・高鳥たかとり村、西は斗合田とごた(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉いたくら村・岩田いわた村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。


飯野村
いいのむら

[現在地名]富山市飯野・つる丘町おかまち

神通川と常願寺川に挟まれた平地の穀倉地帯にあり、西は豊田とよた村。付近に上飯野村・下飯野村があり、下飯野村の枝郷が飯野村ともいわれる(加賀藩農政史考)。初め赤田あかだ村・赤田新村と称したが、新川郡内に同名村があったため、慶安二年(一六四九)から承応二年(一六五三)の間に飯野郷に基づく村名に変更したと伝える(三辺家文書)荒屋あらや(のちの広田新屋村)の居村百姓で、加賀藩初期の十村肝煎に任命された三助(三辺氏)が、同村付近の野毛無地を慶長四年(一五九九)から新開して赤田村・赤田新村と唱え、新田高五六九石、免四ツ七歩であった(享保一〇年「飯野村伝兵衛口書」同文書)


飯野村
いいのむら

[現在地名]富津市上飯野かみいいの下飯野しもいいの

本郷ほんごう村の西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千二三七石。寛文四年(一六六四)の保科正景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、飯野藩領。元禄郷帳でも高一千二三七石余であるが、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では上飯野村六六一石余、下飯野村七一九石余と二村に分けられ、ともに飯野藩領となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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