粟井庄(読み)あわいのしよう

日本歴史地名大系 「粟井庄」の解説

粟井庄
あわいのしよう

「和名妙」英多あいた郡粟井郷の郷名を継ぐものか。粟井川右岸の粟井中あわいなかを遺称地とし、庄内小房おぶさ城などがあることから、現作東町北部一帯に推定される。富永資村が承久の乱の勲功として地頭職を賜ったという(諸家系図纂)。乾元二年(一三〇三)と推定される造内宮所条書(輯古帖)に「相国被申美作国粟井庄事」とみえるが、詳細は不明である。徳治三年(一三〇八)と推定される九月の徳淳書状(醍醐寺文書)によれば、当庄下司職は先師覚雅の遺領であるが、徳大寺家と訴訟の最中という。明徳四年(一三九三)七月二〇日、播磨国伊和いわ神社(現兵庫県宍粟郡一宮町)に修理造営料所として、庄内新免村地頭職と新免兵庫助跡の公文職が寄進された(「赤松義則寄進状」伊和神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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