糸貫川
いとぬきがわ
昭和二五年(一九五〇)廃川となる以前は、越美山脈の根尾谷の水を集めて扇状地平野に出、現在の本巣町山口から糸貫町中央部を南流し真正町と北方町の境界を経て、北方町高屋で南西に転じたのち再び中山道南で南東に転じ、穂積町生津で長良川に合流する流路延長約一五〇キロの川であった。享禄三年(一五三〇)六月の洪水で流入口が埋まるまでは、根尾川の本流であった(同四年五月二三日「馬場景吉書状」堀部千氏所蔵文書)。根尾川の本流はさらに古くは上之保(船木)山の北を経て南東流していたが(古根尾川流路)、平安時代に西に移り、前述の川筋となったと推定される(岐阜県史)。催馬楽に「席田の伊津貫川に住む鶴の千歳を予ねてぞ遊びあへる」とあり、安和二年(九六九)一月二日の関白太政大臣藤原実頼邸の年賀の宴でこれが歌われている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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