席田用水
むしろだようすい
中世末にはすでにかなり整備されていたと考えられるが、成立年代は不詳。根尾谷の水を山口(現本巣町)で糸貫川に落し、江戸時代には流域の席田・本巣・方県の三郡四〇ヵ村(高二万四千七〇〇石余)を灌漑した美濃最大の用水。真桑用水と合せて山口井水とも称した。もとは糸貫川が根尾川の本流で、真桑用水は糸貫川の水を分与してもらっていたと考えられる。ところが、享禄三年(一五三〇)六月の洪水で糸貫川への流入口が埋まり、根尾川本流が西の藪川(現根尾川)に付替った。このため、糸貫川を用水源とした当用水掛りの村々名主・百姓らは用水確保のため翌年守護土岐頼芸にこれまでどおり山口において一ノ井を堰止め、取水することを願出て許されており(享禄四年五月二三日「馬場景吉書状」堀部千氏所蔵文書)、当用水の優位が保たれることになった。これを不満とした真桑用水方の村々は、同五年山口堰を崩し落した。これに対し土岐氏は真桑方にもとどおり修復するよう命じている(同年六月一三日「松橋周之書状」同文書)。慶長一九年(一六一四)と推定される席田百姓中申状案(同文書)によれば、洪水で埋まった席田山口井堰普請に出役したのは上の方(上之保か)・菊松・福田寺・三橋・郡府・春近・石原・仏生寺・見延・長屋(現糸貫町)、加茂・芝原・北方(現北方町)、曾井・中島・山口・文殊(現本巣町)、又丸・尻毛・西郷・御望・改田・東改田・川部(現岐阜市)、馬伏・鋳物師屋とほか一村の二七ヵ村であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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