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河川の流域に大雨が降ったり、山の積雪が春に融(と)けたりして、河川に多量の水が流出してくる現象をいう。このため、護岸施設を破損したり、さらには堤防を越えたり、あるいは堤防を破壊した水が沿岸に被害を与えるが、これを洪水害という。
[安藤隆夫・饒村 曜]
洪水をおこす気象的な原因は、暖候期(6月から9月ごろまで)の前線や台風に伴う大雨が主で、春先の融雪もその原因ではあるが、前者ほど大きな洪水を伴うことはない。日本は他の中緯度の国に比べて雨が多く、山地が海に迫っているために河川の長さは短く、勾配(こうばい)が急で、山地の雨は短時間に平野部に流れ出てきて氾濫(はんらん)する。このため洪水の被害は比較的多い国である。また日本の気象災害のなかでは、洪水による被害は、人的被害においても物的被害においても、もっとも大きな災害をもたらす。それは、日本の平野は大部分が河川の氾濫によってできた沖積平野であり、そこに全人口の約5割、全資源の約7割が集中していることに原因がある。
[安藤隆夫・饒村 曜]
日本における河川の治水のもっとも早い記録は、5世紀前半ごろに、現在の大阪の淀川(よどがわ)下流に新川を開削して大和(やまと)川の水を分流させるとともに、淀川の左岸に茨田堤(まんだのつつみ)を築き、交野(かたの)、茨田(まった)、東成(ひがしなり)(現在の枚方(ひらかた)、寝屋川、守口など北河内(きたかわち)の平野)の各郡を、淀川の氾濫から守ったという事績がある。しかし、それより先の弥生(やよい)時代に稲作が伝えられ、米が経済の主体になってから、米を生産する水田は、初めは山際の谷地田(やちた)の小河川や湧水(ゆうすい)を利用していたが、人口が増え米の生産の増強が迫られるにつれて、河川の主流近くにまで拡張せざるをえなくなる。この時期から水田を侵す洪水との闘いが始まったといえる。河川は水田の稲を養う母である反面、洪水時には水田を荒らすという両面性をもっている。茨田堤は、統一国家となった日本が、米の生産力の確保のために大規模な事業を行ったころの初期の記録と思われる。茨田の築堤の方式はさだかではないが、当時の帰化人である秦氏(はたうじ)の多くがこれにあたったというところから、百済(くだら)の治水技術、さらには中国の治水の方式なども利用されたと思われる。
中国の治水は、禹(う)が黄河を治めたとの伝承が真実とすれば、紀元前2300年ごろにさかのぼる。中国の治水の歴史は古く、その技術もかなり進歩していたと思われる。その治水の思想は、いたずらに堤防をもって洪水を防ごうとしてもそれは不可能であって、よく河の性質を知り、その流れにもっとも抵抗の少ない方法により、河を治めるべきであるとするものであった。日本における治水思想も、江戸中期ごろまで、根底にこの中国の治水の考え方があったように思われる。
奈良時代に入ってからは、淀川の下流を分流させて三国川(現、神崎(かんざき)川)を開削したほか、鬼怒(きぬ)川(栃木県)、天竜川(長野・静岡県)、淀川の堤防の修築などを行っている。都が京都に移ると、賀茂(かも)川(鴨(かも)川、京都府)の治水が始まったのは当然として、治水の担当者が防鴨河使(ぼうかし)などと称して史上に現れてくる。しかしその後、桂(かつら)川(京都府)や淀川に輪中堤(わじゅうてい)などの発達の跡はみられるが、大きな治水事業は行われていない。治水事業がふたたび活発に行われるようになったのは戦国時代からで、武田信玄(たけだしんげん)の釜無(かまなし)川の治水や、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の木曽(きそ)川の河道の付け替え、巨椋池(おぐらいけ)と宇治川の分離などは有名である。江戸時代に入るとますます河川の付け替え(瀬替(せがえ)ともいう)などが各地で行われるようになる。しかし近世の土木工事は、その初期には、特定の村落や耕地あるいは城下を洪水から守るために、周囲に堤を設ける輪中などの方法がとられ、河川はその堤外を自由に流下させるいわゆる低水(ていすい)工事が行われた。また天正(てんしょう)年間(1573~1592)加藤清正が肥後(ひご)(熊本)の菊池川で初めて行ったとされる乗越堤(のりごえてい)や、そのほか雁金堤(かりがねてい)、洗堰(あらいせき)、二重堤にしても、また信玄が実施したといわれる霞堤(かすみてい)なども、一定の水嵩(みずかさ)以上に水位が上昇すれば、堤間にこれを蓄えるか、または堤内地へ意図的に溢出(いっしゅつ)させる築堤方式であり、河川を堤間に閉じ込めようとする考えはなかった。したがって、このころまで日本の治水の思想には、前述の中国の治水の思想が流れていたと思われる。
徳川氏が関東に入り、それまでほとんど乱流を繰り返していた利根(とね)川や荒川の治水を手がけた。そして利根川は東へ東へと開削され、ついに常陸(ひたち)の鬼怒川にこれを放ち、現在の銚子(ちょうし)への流路とするのであるが、これを奉行(ぶぎょう)した伊奈(いな)氏の手法には、遊水池を設け、二重堤を築くなど低水工事がみられる反面、連続堤を築くなど高水(こうすい)工事の手法もみられ、それ以前の土木技術に比べて大きな進歩がみられる。これは、堤防を高くする高水工事や、その護岸や水制の技術の発展によるが、さらにその基礎として和算の発達があり、これによって築堤の体積や、上面と底面の割合などの計算が可能となったためといわれる。当時これらの技術は各流派の秘伝とされ、伊奈氏などもっとも卓越した技術をもった流派の一つであった。そして江戸時代の中期、享保(きょうほう)年間(1716~1736)のころになると、築堤技術はさらに進み、高水によく耐える築堤が建造できるようになる。土地の開拓や利用上の必要もあって「川除(かわよけ)(水防)とは堤を切らさぬ備え」となり、連続した高堤の中に河川を閉じ込め、洪水もその中に治めるようにする高水工事の思想に変わっていくのである。また堤防を強化する蛇籠(じゃかご)(タケや藤づるなどを丸く長軸に編んでなかに石を詰めたもので、形がヘビに似ている)、枠(木を三角錐(さんかくすい)に組んだものは、その形がウシの角(つの)に似ているため聖牛(せいぎゅう)などとよばれる)、河川のなかに堤防とほぼ平行して突き出している出し堤(つつみ)などの護岸、水制の技術も発達していった。さらに、鉱山技術の発達による岩石の掘り抜き工事などの進歩もこれを促進したといえよう。高水工法への移行は経済社会の発展に伴う必然的なことで、やむをえない方向ではあったと思う。しかし、この結果として、河川は急流となり、土砂は河床にたまり、河床は高くなり、これを防ぐためには、ますます堤防を高くじょうぶにしていかなければならなかった。
その後明治時代を迎え、ダムによる治水が導入されるまでいろいろと論議はあったが、高水工事が日本の治水の主流であったといえよう。
[安藤隆夫・饒村 曜]
現代の治水は、河川の山間部にダムをつくり、ダムによって洪水を調整し、他面これを利水の面にも利用しようとする多目的ダムによる方法が主流といえよう。要は、暖候期に発生する洪水をダムによってせき止め、下流の洪水を制御するとともに、農業用水、水力発電などにその貯水を定常的に利用しようとするものである。日本におけるダムによる洪水調節は大正時代末期に提唱され、鬼怒川に五十里ダム(いかりだむ)(栃木県)の建設が図られている。しかし、ダムが本格的に多目的な期待を担って登場するのは、第二次世界大戦後の1949年(昭和24)以降である。その契機となったのは、1947年のカスリーン台風や1948年のアイオン台風による大水害の相次ぐ発生に伴う、従来の連続大堤防の築造による高水工事への反省とともに、利水上は工業の発展に伴う電力、工業用水、さらには都市用水の需要の急激な増加などであった。またアメリカのTVA(Tennessee Valley Authorityの略。テネシー川流域開発公社のこと)のテネシー河川流域の開発の成功なども大きな刺激であったことはいうまでもない。
しかし河川の治水は、ダムのみによって洪水調節を図りうるものではない。とくに日本のダムには、洪水を遮断するほどの容量の大きいものはない。洪水時の水量を時間的に調節し、洪水波の山をなし崩しに小さくすることにより、河川に一時的、破壊的な水量が流出するのを避けることがおもな目的である。そのために、堤防を構築し遊水池を設け、堤防の護岸と河川の水制などを敷き、洪水時の水量(計画洪水量)の調節もできるよう、総合的な洪水調節に向かっている。
[安藤隆夫・饒村 曜]
洪水予報には、気象庁が発表する一般の利用を目的としたものと、気象庁と河川管理者が共同で発表する、水防活動を目的とし河川を指定した洪水予報の2種類がある。気象庁では、多量の雨が降り、河川が増水して洪水による水害がおこるおそれがあるときは洪水注意報を、また「重大な水害」がおこるおそれがあるときは洪水警報を発表している。発表基準は、各予報区ごとに異なるが、たとえば横浜市の場合(2010年5月時点)、1時間雨量が30ミリメートル以上、流域雨量指数が境川(さかいがわ)流域16以上、柏尾(かしお)川流域14以上、帷子(かたびら)川流域6以上、恩田(おんだ)川流域8以上、新田間(あらたま)川流域15以上のいずれかが予想されるときには洪水注意報を、1時間雨量が45ミリメートル以上、流域雨量指数が境川流域20以上、柏尾川流域18以上、帷子川流域8以上、恩田川流域10以上、新田間川流域19以上のいずれかが予想されるときには洪水警報を発表する。
河川を指定した洪水予報は、その河川の特定地点の水位や流量をも予報するもので、その予報結果は、気象庁と河川管理者が共同で関係都道府県に通知するとともに、必要に応じて報道機関の協力を求めて一般に周知し、各種の水防活動に使われている。具体的には、洪水予報の標題と水位の名称を、洪水の危険に応じて以下の五つのレベルに分けている。
(1)レベル5(標題:はん濫発生情報、状態:はん濫発生)
(2)レベル4(標題:はん濫危険情報、水位名称:はん濫危険水位)
(3)レベル3(標題:はん濫警戒情報、水位名称:避難判断水位)
(4)レベル2(標題:はん濫注意情報、水位名称:避難注意水位)
(5)レベル1(標題:なし、水位名称:水防団待機水位)
つまり、「はん濫注意情報」が「洪水注意報」に相当し、「はん濫警戒情報」「はん濫危険情報」「はん濫発生情報」が「洪水警報」に相当する。
河川を指定した洪水予報が始まるきっかけとなったのは、1947年(昭和22)9月15日に紀伊半島の南海上から房総半島をかすめたカスリーン台風によって、利根川の堤防が埼玉県栗橋(くりはし)付近で決壊、南下した濁流は、東京都葛飾(かつしか)区ではほぼ100%、江戸川区では67%、足立(あだち)区では11%を被災者にした水害が発生したことによる。その後、設備や制度等が整備され、1962年までに17河川が対象となり、気象庁と建設省(現、国土交通省)が共同で河川を指定した洪水予報を行ってきた。しかし、1988年までに指定した河川の数は17から増えなかった。これは、この17河川が、(1)流域面積が大きい日本有数の河川が中心であり、早くから雨量や水位等の観測施設が整備されてきた、(2)上流域での降水から下流域での出水までの時間が長い、などのことから、洪水予報が比較的行いやすい河川であったために実用性のある洪水予報が出せたからであり、17河川以外が洪水の心配がなかったわけではない。主要な大河川については、河川の改修等が進み、破堤や氾濫などは減少していったが、1974年9月に台風第16号の豪雨によって東京都狛江(こまえ)市の多摩川堤防が決壊したり、小貝(こかい)川(栃木県)、石狩(いしかり)川(北海道)、千曲(ちくま)川(長野県)などではたびたび洪水になったりするなど、大きな被害が発生していた。このため、建設省は河川管理システムを整備し、気象庁は降水短時間予報等の予測技術の向上を図ってきた。とくに降水短時間予報は、降雨から河川の出水までの時間の短い河川や、流域面積の小さい河川の洪水予報に対して有効な情報であった。これらのことから、建設省と気象庁は河川を指定した降水予報を拡大することとし、1988年の多摩川を皮切りに、全国の一級河川を順次指定し、109ある一級水系(国土保全上、または国民経済上とくに重要な水系で政令で指定したもの)すべてで、気象庁と国土交通省が共同で洪水予報を行っている。また、都道府県管理の河川についても、2002年(平成14)からは、都道府県と気象庁が共同で行う洪水予報が始まるなど、順次拡大が計画されている。
[安藤隆夫・饒村 曜]
『畠山久尚編『防災科学シリーズ1 気象災害』(1966・共立出版)』▽『二宮洸三著『集中豪雨の話』(1977・出光書店)』▽『宮沢清治著『現代の気象テクノロジー3 防災と気象』(1982・朝倉書店)』▽『高橋博・木下武雄・植原茂次・藤田寿雄・小松章一・山口高志編『豪雨・洪水防災』(1987・白亜書房)』▽『大熊孝著『洪水と治水の河川史――水害の制圧から受容へ』(1988・平凡社)』▽『高橋裕著、藤田正純絵『あばれ川とたたかう』(1989・農山漁村文化協会)』▽『日本河川協会編・刊『大水のはなし 全国の洪水被災者の体験談'80~'90』(1991)』▽『伊藤安男著『治水思想の風土――近世から現代へ』(1994・古今書院)』▽『米国河川研究会編著『洪水とアメリカ――ミシシッピ川の氾濫原管理』(1994・山海堂)』▽『利根川研究会編『利根川の洪水――語り継ぐ流域の歴史』(1995・山海堂)』▽『ジェーン・ウォーカー著、橘高弓枝訳『災害とたたかう4 洪水』(1996・偕成社)』▽『ポール・ベネット著、日本赤十字社監訳、東京外国語センター訳『洪水』(1999・小峰書店)』▽『松本繁樹著『山地・河川の自然と文化――赤石山地の焼畑文化と東海型河川の洪水』(2000・大明堂)』▽『依光良三編著『流域の環境保護――森・川・海と人びと』(2001・日本経済評論社)』▽『京都大学防災研究所編『防災学講座1 風水害論』(2003・山海堂)』
豪雨などによって,河川の水かさが急激に増加し,異常な流量にまで達する現象およびそのときの流れをいう。一般には河道から水がはんらんすることを洪水と呼んでいるが,はんらんは洪水によって引き起こされる結果の一つであり,はんらん=洪水ではない。洪水の直接原因は一般には豪雨とか融雪である。日本では主として梅雨末期や台風通過の際の豪雨,積雪地帯ではこれに加えて春先の気温上昇または豪雨に伴う融雪によって洪水が発生する。
洪水は上流では河床こう配も急であるため,流速は早く数m/sにも達し,大量の大きい砂れきなどを運びつつ流れ,大洪水ともなれば立木などの流木まで流し去る。中流までくるとこう配が緩やかになるにつれ流速はやや小さくなるが,いくつかの支流が合わさるため流量は大きくなり,流れの方向に水深に応じてらせん流を形成しつつ流れ下る。せきや橋脚などの障害物付近では局所的には渦を発生したり,あるいはその下部の河床を削りくずしたりすることもある。下流では川幅はより広く,流量もさらに大きくなり,比較的大きい砂れきはすでに河床に沈殿し,流送する土砂粒は細かくなる。さらに河口に近づくと,潮汐の流れがくさび状に深部に潜入するため,さらに細かい粒子が沈殿する。ただし利根川における江戸川のような派川がある場合,あるいは信濃川や広島の太田川のように洪水を直接海へ注ぎ込むための放水路がある場合には,その分岐点からは洪水流量が著しく減少する。日本の河川は一般に小規模で流路延長も短いので,利根川のような大河川でも,上流山地に豪雨が降ってから河口まで洪水の主流が到達するまで2日足らずしか要しないが,大陸の大河川では数週間もかかり,しかも上流の一部に大豪雨があっても,それによる水位上昇は下流へくるとcm単位であまり目だたないほどである。大洪水ともなると洪水流が堤防を決壊させ,宅地や農耕地などに浸入して大きな被害を生ずる。堤防を突き破った流れははんらん流となって,広大な土地を水没させることが多く,多くの住居や農耕地に浸水被害を与える。洪水の流れが堤防を破らない場合でも,水位上昇に伴って川幅いっぱいに激しく流れれば河川敷内の堤防や護岸などの河川工作物,高水敷(河川敷のうち平常は流水のない高い部分)にある施設や農作物は被害を受けるので,これら河川災害なども洪水後に復旧しなければならない。
洪水が生じても,それに対する処理計画が万全で十分に実施され,維持管理も行き届いていれば,堤防も決壊せず水害とはならない。洪水処理計画においては,計画の対象とする洪水--基本高水と呼ばれる--を想定し,その規模の洪水までは河道内を安全に流過させるように工事実施基本計画を樹立する。基本高水は重要河川では確率的に150年もしくは200年に1回発生する程度の大洪水とする。この基本高水流量を,ダムと河道部分に配分し,それぞれが受けもつ流量が決められる。河道の各地点ごとに配分された流量は計画高水流量と称し,それぞれの地点ではこの流量を計画の対象として必要な堤防の高さや川幅などが決められ,それに則して河川の改修が行われる。
洪水は豪雨や融雪によって生ずる自然現象ではあるが,洪水対策として設けられるダムや平野部での遊水池などに一時的に蓄え,その流量を減じて下流へ流すなど,人為的にその形態を変更させることができる。明治中期以降,日本の重要河川で行われてきた堤防の連続化による徹底した河川改修工事によって,洪水流はそれ以前より早く河道内に集中的に流入して,河口に到達する時間が短縮化されるとともに,中・下流部では,同程度の豪雨に対しても洪水流量が大きくなるという結果をもたらした。堤防が広い区間に完備していなかった時代には,豪雨後,降水が河道まで到達するまで流域内に滞留し,また河道にいったん流入したあとも,堤防の無いところや堤防の低い区間であふれていたからである。洪水をいわば遊ばせ歩かせていたのを,整備した河道によって洪水を走らせた結果,洪水流は迅速化,大規模化したのである。このため,第2次世界大戦後は河川の上流部にダムを造ったり,あるいは中流部に人工的に遊水池を設け,ここで洪水を蓄えることが重要な洪水処理手段となっている。
→洪水神話 →水害 →治水
執筆者:高橋 裕
農業技術の未発達な時代には,洪水とそれにともなう泥海はこの世の終末と意識された。東北地方ではかつてあった最大の洪水を〈白髪水〉と呼び,その直前に白髪の老人が予告したり出水のおりに水の上を下ってくると語られた。木曾川下流域では大増水の際,〈やろかぁー,やろかぁー〉という叫びが聞こえ,これに応答すると水が浸入するという〈やろか水〉の伝説が語られている。沖縄では,霊魚が人間の言葉で津波の予告をしたという伝説があり,宮古の伊良部島には津波の直前,ヨナタマ(人魚)の声に気づいた母子だけが難をのがれた話が伝わる。陸前地方にはウンナン神(鰻神)が多く分布するが,やはり白髪のウナギが洪水を予告した伝説がある。水の霊が洪水という破局の前に,魚や人の声で予告することは,裏返せば終末から人間を救う行為と考えられ,これらの伝説の成立には宗教者の関与がうかがわれる。
→灌漑 →洪水神話 →治水
執筆者:佐野 賢治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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