日本歴史地名大系 「網代浦」の解説 網代浦あじろうら 大分県:津久見市網代浦[現在地名]津久見市網代福良(ふくら)浦の東、津久見湾に面する四浦(ようら)半島の北岸基部付近に位置する。文禄(一五九二―九六)の頃、当地の赤崎(あかさき)は大友家の鹿狩場の一つであった(文禄四年一〇月「当家年中作法日記」大友義一文書)。江戸時代は佐伯藩領津久見浦組を構成する一村であった。元和六年(一六二〇)閏一二月一九日の毛利高政触書(温故知新録)に「あしろうら」とみえ、毛利高政は当浦に対し海草類を他藩の者に採取させることを禁じている。また寛永一五年(一六三八)四月一〇日には津久見の又右衛門は当浦からの水夫役を以後三年間、一人宛免除する旨申渡されている(温故知新録)。 網代浦あじろうら 和歌山県:日高郡由良町網代浦[現在地名]由良町網代由良川河口の北岸にある。北西は里(さと)村枝郷横浜(よこはま)浦と接する。慶長検地高目録では「安戸村」(高二七六石余)のうちに含まれる。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では「阿戸二ケ村」とあり、内訳は本村分と網代村を別記する。網代村の村高は浦役として一七石余、家数九二、人数三八六、牛一で、家数内訳は本役一四・半役四六・無役二八・庄屋一・年寄二・ありき一。本村阿戸村と比較すると、村高が一五分の一以下でありながら人数にそれほど差がなく、半役・無役が圧倒的に多いことから、漁業中心の村であることがわかる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報