津久見市(読み)ツクミシ

デジタル大辞泉 「津久見市」の意味・読み・例文・類語

つくみ‐し【津久見市】

津久見

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「津久見市」の解説

津久見市
つくみし

面積:七九・三〇平方キロ

豊後水道に臨む津久見湾岸に立地し、南は南海部郡上浦かみうら町・弥生やよい町、西から北は臼杵うすき市。南はひこ(六三九・三メートル)山頂を境に佐伯さいき市とも接する。彦岳のほか、西に碁盤ごばんヶ岳(七一六・三メートル)ひめ(六一九・九メートル)、北に鎮南ちんなん(五三六・四メートル)などがある。後背地は石灰岩の山塊が連続し、この間を刻んで流下する青江あおえ川や津久見川の下流域に市の中心部が開けている。原料立地型のセメント工業が発達し、また漁業とともに山間部では江戸時代以来蜜柑栽培が盛んである。

〔原始・古代〕

市域内の遺跡は四浦ようらに弥生時代の大峯おおみね遺跡、上青江に古墳時代の岩屋口いわやぐち遺跡などがある。古代には「和名抄」に記載される海部郡穂門ほと郷に所属したと思われ、市の南東部に突き出した四浦半島の先端に浮ぶ保戸ほと島が古代郷名をとどめている。平安時代大神系臼杵氏の開発により成立したとされる臼杵庄に含まれたと推定される。同庄は治承四年(一一八〇)以後九条家領として相伝された(同年五月一一日「皇嘉門院惣処分状」九条家文書)

〔中世〕

鎌倉時代後期には臼杵庄の領家職は九条家から分れた一条家に伝領され、地頭職は北条得宗家に伝えられていたと思われる(豊後国弘安図田帳)。南北朝時代になると大友氏の所領に組込まれた(永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」大友文書)。永享七―八年(一四三五―三六)大友持直は攻め寄せる周防大内・伊予河野軍に対し姫岳に籠城し抵抗したが、一族の寝返りもあり落城した(同八年七月五日「室町将軍家御教書」小早川家文書など)。当地域で活動した在地武士として津久見氏や薬師寺氏らが知られる。一五世紀末頃の三月一一日の大友親治書状(薬師寺文書)に「津久見衆舟馳走人数」、同じ頃の四月二五日の大友親治安堵状(同文書)に「津久見五人衆」とみえ、また一六世紀半ばの一〇月一七日付大友義鑑感状(同文書)には薬師寺内蔵助に宛てて「今度兵船馳走之刻、賊船懸合遂防戦、被疵之由候」などとあり、いずれも大友氏麾下の水軍(海部衆)の一員として活躍している。薬師寺氏は一時期臼杵庄の管理を担当する庄政所に任じられていたと推定される(年未詳六月一日「大友氏加判衆連署奉書」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津久見市」の意味・わかりやすい解説

津久見〔市〕
つくみ

大分県南東部,津久見湾にのぞむ市。 1951年津久見町と日代,四浦,保戸島の3村が合体して市制。中心市街地の津久見は,かつて漁村であったが,1916年,佐伯線 (現 JR日豊本線) の臼杵-佐伯間開通を契機に石灰石の採掘が始り,翌年セメント工場が操業開始,21年には町制施行と,急速な発達をとげた。周辺は彦岳,姫岳,胡麻柄山など標高 600m前後の古生層山地で,良質の石灰岩が採掘される。現在セメント製造は基幹産業となっており,最大1万t級の船舶が接岸できる津久見港 (1949年開港場,51年重要港湾指定) からおもにアジア諸国に向けて輸移出されている。一方で,セメント工業に伴う公害が問題となっている。津久見川をはさむ山地斜面では,明治末期以来ミカンの栽培が行われており,缶詰工場もある。上青江にある尾崎小ミカン先祖木は天然記念物。大友宗麟の墓,キリシタン関係の旧跡,カルスト台地の八戸高原などがある。津久見湾岸一帯と八戸台は日豊海岸国定公園,残りの大部分豊後水道県立自然公園に指定されている。国道 217号線が通る。面積 79.48km2。人口 1万6100(2020)。

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