網代村(読み)あじろむら

日本歴史地名大系 「網代村」の解説

網代村
あじろむら

[現在地名]熱海市網代

下多賀和田木しもたがわだき村の東に位置し、東と北は海に面し、南は宇佐美うさみ(現伊東市)に接する。中世は網代郷のうち。江戸時代初めは幕府領、寛文三年(一六六三)相模小田原藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、宝永五年(一七〇八)再び小田原藩領、天明五年(一七八五)石見浜田藩領、寛政四年(一七九二)幕府領、文化八年(一八一一)には旗本酒井領(高二七石余)と幕府領(高一六石余)の相給となり幕末に至る(韮山町史・網代村誌)。慶長一五年(一六一〇)には畑八反余・高五石余、屋敷二八九・三町一反余・高三一石余(寛永一二年「木戸片町屋敷并畑高覚」岡本家文書)。寛永一五年(一六三八)年貢割付状(岡田家文書)では定納鰯網役三五石余。元禄郷帳では高四四石余。宝永三年の村差出帳下書(善修院文書)によると家数二八三・人数一千五四三、船八一。流れ物・拾い物は六ヵ月経て荷主がなければ拾った者に与え、荷主が現れれば拾った者へ分一を渡す。

網代村
あじろむら

[現在地名]岩美町網代

岩本いわもと村の北西、蒲生がもう川河口北側に位置する。応長元年(一三一一)一一月二日の某寄進状(因幡民談記)にみえる「網代寺」は当地にあったものと推定される。中世には大谷おおたに村の日比屋ひびやの滅罪地として三ヵ寺があったと伝え、大永―天文年間(一五二一―五五)頃、但馬国美含みくみ(現兵庫県美方郡)の海賊に焼打ちされ住む人もなくなったが、元和―寛永年間(一六一五―四四)石見国の漁師が移住してきたのを機に村が形成されたという(因幡志)岩本村の支村だが、享保一九年(一七三四)以前に領内限り一村となっていたらしい(同年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」)。前掲「因幡誌」によれば高二〇〇石余、竈数五一。「因幡志」では家数一三二。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳には竈数一七六(うち医師一)とみえ、岩本村とは別に村役人を置くが下札は分与されていないと記されている。

大半は漁業に携わるが、安政二年の余業人書上(福光家文書)によれば廻船業者一・船大工職三・綿商売一。

網代村
あじろむら

[現在地名]あきる野市網代

あき川右岸にあり、西は高尾たかお村。南北にいわゆる鎌倉街道、東西に古甲州街道が通り、地内で交差する。永禄三年(一五六〇)と推定される庚申三月一六日の北条家朱印状(網代文書)に網代百姓中とあり、当時小田原北条氏の直轄領だった当地に六ヵ条からなる徳政令が発布された。内容は(一)来秋の年貢は半分は米で半分は精銭で納めること、(二)借銭・借米の破棄、(三)田畑年季売期間の軽減は認めるが、(四)年貢・反銭・棟別銭等の代官・奉行の立替分、(五)北条一族の貸付金、(六)無尽銭は徳政の対象外としている。永禄二、三年は気候不順による凶作で飢饉が発生しており、この徳政令はその対策であった。天正五年(一五七七)一一月七日滝山たきやま(現八王子市)城主北条氏照は「網代山作」に対して二間分の棟別銭を免除しているが(「北条氏照朱印状」同文書、以上二点の文書は都指定文化財)、これは七間分の棟別銭のうち免除されていない二間分を滞納した網代山作が、代官衆に人馬を差押えられるという事件が起こったため、彼らからの訴えで残り二間分を免除したもの。

網代村
あじろむら

[現在地名]上対馬町網代

現町域の北部に東面して位置し、西泊にしどまり浦に臨む。北西は比田勝ひたかつ村。「津島紀略」では阿字呂と訓じる。対馬では網を張るのに適した魚礁をアジロと称した。慶長三年(一五九八)一一月二五日、島津家久・同義弘はまき(現佐賀県伊万里市)から出帆して豊崎鰐とよさきわに浦に着岸し、二六日「細泊」につき、二七日「白賀」、二八日鴨瀬かもぜ(現美津島町)と海路をとっているが(「島津家久譜」「島津義弘譜」旧記雑録)、この「細泊」は当地と推定される。朝鮮の役で村方が荒廃するなか、「あしろ村」では一四人が船で逃散した(「郡中人付」洲河家文書)。正保二年(一六四五)の二郡村々物成では網代村として籾一斗余・麦一三石余。寛文二年(一六六二)検地帳では豊崎郡網代村として高九石余。

網代村
あじろむら

[現在地名]川越市山田やまだ

宿粒しゆくりゆう村の北、入間いるま川と赤間あかま川に挟まれた低平地に立地。永禄四年(一五六一)四月八日の北条氏康・同氏政連署書状写(古今消息集)に「河越庄内網代郷」とみえ、河越城に援軍として籠城した今川氏真の家臣小倉内蔵助に論功行賞として宛行っている。年月日未詳の北条氏政判物写(風土記稿)では、網代郷などが毛呂土佐守顕季に宛行われている。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三〇九石余・畑高一四石余、川越藩(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二九四石余、反別田二六町余・畑二町一反余、ほかに開発分高一七石余(反別田一町五反余・畑一反余)

網代村
あじろむら

[現在地名]白石町大字今泉いまいずみ字網代

現白石町の中央部の北寄りに位置する田園の中の散村である。正保絵図に村名がみえる。

この村は奈良時代頃までは有明海の海岸にあり、当時の有明海の海岸線はひで村から網代村を経て廻里江めぐりえ川の線であったと推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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