羽梨庄・葉梨郷
はなしのしよう・はなしごう
現在の北方・西方・中ノ合・花倉・下之郷辺りに比定される中世の庄・郷。建武四年(一三三七)九月二六日の足利尊氏下文写(今川家古文章写)、同五年正月二日の今川範国書下写(土佐国蠧簡集残篇)などに羽梨庄・葉梨庄とみえ、足利尊氏は今川範国に当庄地頭職などを宛行い、松井助宗と松井兵庫允を地頭代に任じ、それぞれに庄内の田地一町歩と屋敷一所を与えた。その後範国は庄内の上郷と中郷等の地頭職を鎌倉円覚寺に寄進(観応二年三月二〇日「今川範国寄進状」円覚寺文書)、これを受けて足利尊氏は観応二年(一三五一)五月九日、円覚寺にこの二郷の寄進を安堵している(「足利尊氏寄進状」同文書)。応安三年(一三七〇)六月一日、範国は円覚寺の鼎甫崇鎮に対し、寄進した葉梨上・中両郷に子孫が干渉しないことを誓約した(「今川範国置文」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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