戦国期の武将。晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))の四男で、母は諏訪頼重(すわよりしげ)の娘。幼名四郎。1562年(永禄5)元服して諏訪氏の名跡を継ぎ勝頼と称す。信州伊那郡代(いなぐんだい)として高遠(たかとお)城を守る。67年に長兄の義信(よしのぶ)が信玄により反逆罪で刑死させられたのち、信玄の嗣子(しし)に定まる。73年(天正1)信玄が病没すると家督を継ぐが、遺言により喪を3年間秘し、信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いた。父の遺業であった西上(さいじょう)作戦を続行し、74年の初戦では遠江(とおとうみ)の高天神(たかてんじん)城を陥落させた。しかし75年5月の三河長篠(ながしの)の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に敗れ、それを契機に、家臣団の分裂や勝頼自身の経験不足のため、父信玄の遺(のこ)した領国の維持も困難になり順次領国を失っていった。とりわけ78年に、越後(えちご)の上杉謙信(けんしん)の没後の跡目相続に介入し、景勝(かげかつ)側を支持したところから、同盟関係にあった北条氏政(うじまさ)を敵に回し、孤立するに至り、美濃(みの)の岩村城、遠江の二俣(ふたまた)城、高天神城を次々と失った。家臣団内部でも対立が起こり、まず親族衆の木曽(きそ)氏が信長へ、ついで同じく親族衆の穴山信君(あなやまのぶきみ)も家康に内通するに至った。勝頼は81年、織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎(にらさき)城を築いたが、翌82年織田信長が甲斐侵攻作戦を開始すると、同年3月、新府城に火をかけて都留(つる)郡へ逃れ、天目(てんもく)山下の田野(たの)で一族とともに自害し、武田家は滅亡した。
[柴辻俊六]
『上野晴朗著『定本武田勝頼』(1978・新人物往来社)』
(笹本正治)
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1546~82.3.11
戦国期~織豊期の武将。武田信玄の子。1565年(永禄8)兄義信の失脚により嗣子となる。73年(天正元)信玄が死に,76年正式に家督となった。この間遠江・三河に進攻したが,75年織田信長・徳川家康軍に大敗し(長篠の戦),以後しだいに守勢となった。78年後北条氏とも敵対関係になり,東西に大敵を抱えた。81年本拠を甲府から新府(現,山梨県韮崎市)に移したが,82年木曾義昌・穴山梅雪らがあいついで信長・家康に通じ,これに呼応して織田・徳川軍は諸方面から甲斐・信濃に進攻。小山田信茂の離反もあって,甲斐国田野(現,同県甲州市)の天目山(てんもくざん)の戦で追いつめられ自殺。
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…旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。…
…1582年(天正10)に織田信長が甲斐の武田勝頼を滅ぼした戦い。1573年(天正1)信玄の没後武田家をついだ勝頼は,75年に長篠の戦で織田信長,徳川家康の連合軍に敗れ,以後武田家は衰退に向かった。…
…1582年(天正10)3月11日,甲斐の戦国大名武田氏が滅亡した合戦。織田信長・徳川家康の連合軍に攻められて窮地に陥った武田勝頼は,郡内領主小山田信茂の誘いに応じて,3月3日築城したばかりの新府城(韮崎市)に火を放って郡内岩殿城(現,大月市内)に向かったが,9日には裏切った信茂に鉄砲を撃ちかけられ行く手をはばまれたので,やむなく先祖の武田信満が上杉禅秀の乱で戦死した天目山(東山梨郡大和村)を死地に定め,日川の谷を上った。新府をたったときには700名以上いた武士も次々に去り,わずか四十数名になった。…
…これに対して信玄は北条氏政と結んで再三にわたり家康の所領を攻撃し,72年12月三方原の戦で家康は信玄に大敗した。73年(天正1)信玄の跡を継いだ武田勝頼もしきりに三河・遠江を侵したが,75年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝した。79年,武田氏に内通しているとの疑いで信長に強制されて家康は築山殿を殺し,嫡子信康を自殺させた。…
…1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。…
※「武田勝頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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