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武田勝頼 たけだ かつより

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美術人名辞典の解説

武田勝頼

戦国時代の武将。武田氏最後の士。信玄の次男。天正元年家督を相続、西進を計ったが、同3年長篠の戦で織田・徳川軍に敗れ宿将多数を失い衰退、天正10年(1582)天目山で敗死、36才。

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デジタル大辞泉の解説

たけだ‐かつより【武田勝頼】

[1546~1582]戦国時代の武将。信玄の子。父の没後、その領国を継いで織田・徳川と対立。長篠(ながしの)の戦いに大敗。織田信長に攻められて天目山麓で自刃。

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百科事典マイペディアの解説

武田勝頼【たけだかつより】

戦国大名。信玄の子。1573年家督を継ぎ,父の志を継いで東の北条氏と結び美濃(みの)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)に進出したが,1575年長篠の戦織田信長徳川家康の連合軍に大敗。
→関連項目御館の乱快川紹喜武田氏躑躅崎館天目山徳川家康厩橋

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

武田勝頼 たけだ-かつより

1546-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年生まれ。武田信玄の4男。元亀(げんき)4年父の死により家督を相続。織田・徳川氏とたたかい,天正(てんしょう)3年長篠(ながしの)の戦いで大敗した。6年上杉景勝と同盟をむすんだため北条氏とも対立。織田軍に攻められ,天正10年3月11日甲斐(山梨県)天目山麓で一族とともに自害した。37歳。幼名は諏訪四郎。
【格言など】朧(おぼろ)なる月もほのかにくもかすみ晴れて行くへの西の山の端(は)(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

武田勝頼

没年:天正10.3.11(1582.4.3)
生年:天文15(1546)
戦国・安土桃山時代の武将。信玄の4男。母は諏訪頼重(南北朝時代の頼重とは別人)の娘。生誕に際し,父信玄は諏訪氏の通字「頼」を入れて勝頼と名付け,頼重の跡目として総領家を継がせ,諏訪支配を堅固にしようとの心積もりであった。『甲陽軍鑑』によれば永禄5(1562)年に勝頼は,伊那の郡代として高遠城主となっている。ところが同8年8月,信玄の長男で今川義元の娘を妻とする義信は謀反が発覚し幽閉される。次男は盲目で3男は早世していたため,勝頼の信玄の後継者としての地位が確定し,同年11月義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女と結婚した。この女性は翌年信勝を生み亡くなっている。 元亀2(1571)年高遠から甲府に移り,このころから対外的にも信玄後継者としての行動を取り始める。天正1(1573)年4月,信玄の死により家督を継ぐが,高遠で独自の家臣団を形成していたこともあって,信玄の家臣たちとはややもすると意思の疎通を欠くことになった。同3年5月に三河の長篠城を攻めるが,5月20日の設楽原での合戦で鉄砲と馬防柵を利用した織田・徳川の連合軍に大敗する。その後,態勢の立て直しを図り,同5年1月に北条氏政の妹と結婚した。翌年3月に越後の上杉謙信が死亡し,景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱),初めは氏政の弟景虎に味方したが,軍資金の提供や領地の割譲などを条件に結局景勝についた。このため北条氏との関係が悪化し,東駿河や西上野を攻撃された。同9年に新府城を築いて入城するが,翌年1月には木曾義昌が織田信長に寝返り,親族の穴山信君も徳川家康に内通し,2月,伊那谷に織田軍の攻撃を受ける。3月2日高遠城が落ち,翌日新府城に火を放って岩殿城に向かったが,行く手を阻まれ,11日,一族と共に田野(山梨県東山梨郡大和村)で自害した。墓は同地の景徳院にある。軍事には優れていたが,政治家として時代に乗り遅れた武将といえる。<参考文献>上野晴朗『定本武田勝頼』,笹本正治『戦国大名武田氏の信濃支配』

(笹本正治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たけだかつより【武田勝頼】

1546‐82(天文15‐天正10)
甲斐の戦国大名。信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。1573年(天正1)父の死で家を継ぎ,翌年には遠江高天神城を攻め落とし威勢を張ったが,75年織田・徳川の連合軍との三河長篠の戦に大敗し勢力を弱めた。以後勢力挽回に努めたが効果があがらず,82年織田信長・徳川家康に攻められ,新府城(韮崎市)に火をかけ岩殿城に向かったが,小山田信茂裏切りにあい天目山の戦で自刃した。【笹本 正治】

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大辞林 第三版の解説

たけだかつより【武田勝頼】

1546~1582) 安土桃山時代の武将。信玄の子。信玄没後家督を継ぎ、美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり、織田・徳川軍に追い詰められ、天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

武田勝頼
たけだかつより

[生]天文15(1546)
[没]天正10(1582).3.11. 甲斐
戦国時代の大名。晴信 (信玄) の次男。天正1 (1573) 年信玄の陣没により家督を継いだ。信玄の死去を知った織田信長,徳川家康は,武田氏が征服した駿河,東三河方面に攻め入り,長篠城を攻略するなど武田勢駆逐を企てた。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

武田勝頼
たけだかつより
(1546―1582)

戦国期の武将。晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))の四男で、母は諏訪頼重(すわよりしげ)の娘。幼名四郎。1562年(永禄5)元服して諏訪氏の名跡を継ぎ勝頼と称す。信州伊那郡代(いなぐんだい)として高遠(たかとお)城を守る。67年に長兄の義信(よしのぶ)が信玄により反逆罪で刑死させられたのち、信玄の嗣子(しし)に定まる。73年(天正1)信玄が病没すると家督を継ぐが、遺言により喪を3年間秘し、信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いた。父の遺業であった西上(さいじょう)作戦を続行し、74年の初戦では遠江(とおとうみ)の高天神(たかてんじん)城を陥落させた。しかし75年5月の三河長篠(ながしの)の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に敗れ、それを契機に、家臣団の分裂や勝頼自身の経験不足のため、父信玄の遺(のこ)した領国の維持も困難になり順次領国を失っていった。とりわけ78年に、越後(えちご)の上杉謙信(けんしん)の没後の跡目相続に介入し、景勝(かげかつ)側を支持したところから、同盟関係にあった北条氏政(うじまさ)を敵に回し、孤立するに至り、美濃(みの)の岩村城、遠江の二俣(ふたまた)城、高天神城を次々と失った。家臣団内部でも対立が起こり、まず親族衆の木曽(きそ)氏が信長へ、ついで同じく親族衆の穴山信君(あなやまのぶきみ)も家康に内通するに至った。勝頼は81年、織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎(にらさき)城を築いたが、翌82年織田信長が甲斐侵攻作戦を開始すると、同年3月、新府城に火をかけて都留(つる)郡へ逃れ、天目(てんもく)山下の田野(たの)で一族とともに自害し、武田家は滅亡した。[柴辻俊六]
『上野晴朗著『定本武田勝頼』(1978・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の武田勝頼の言及

【甲斐国】より

…旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
 古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。…

【甲州征伐】より

…1582年(天正10)に織田信長が甲斐の武田勝頼を滅ぼした戦い。1573年(天正1)信玄の没後武田家をついだ勝頼は,75年に長篠の戦で織田信長,徳川家康の連合軍に敗れ,以後武田家は衰退に向かった。…

【天目山の戦】より

…1582年(天正10)3月11日,甲斐の戦国大名武田氏が滅亡した合戦。織田信長・徳川家康の連合軍に攻められて窮地に陥った武田勝頼は,郡内領主小山田信茂の誘いに応じて,3月3日築城したばかりの新府城(韮崎市)に火を放って郡内岩殿城(現,大月市内)に向かったが,9日には裏切った信茂に鉄砲を撃ちかけられ行く手をはばまれたので,やむなく先祖の武田信満が上杉禅秀の乱で戦死した天目山(東山梨郡大和村)を死地に定め,日川の谷を上った。新府をたったときには700名以上いた武士も次々に去り,わずか四十数名になった。…

【徳川家康】より

…これに対して信玄は北条氏政と結んで再三にわたり家康の所領を攻撃し,72年12月三方原の戦で家康は信玄に大敗した。73年(天正1)信玄の跡を継いだ武田勝頼もしきりに三河・遠江を侵したが,75年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝した。79年,武田氏に内通しているとの疑いで信長に強制されて家康は築山殿を殺し,嫡子信康を自殺させた。…

【長篠の戦】より

…1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。…

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