日本歴史地名大系 「耳西郷」の解説 耳西郷みみにしごう 福井県:三方郡美浜町耳西郷現美浜町の耳(みみ)川以西および現三方町の気山(きやま)・海山(うみやま)を含んだ地域に比定される奈良春日社(興福寺)領で、古代の三方郡弥美(みみ)郷(和名抄)の系譜を引く。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「耳西郷(「領家春社」(朱書))七十八町六反二百七十歩」とみえ、定田は五一町余(所当米二三一石余)、除田は二七町余であった。除田の内訳は寺田一町三反余(寺名に惣楽寺・福林寺・長福寺がみえる)、於瀬(うわせ)宮(現宇波西神社)神田四町余、人給二一町余(地頭給一七町余・公文給三町・散仕給二反)である。肩に付された朱書によれば、鎌倉末期には春日社が当郷の領家であり、文永二年には国衙領の応輸田であったから、それ以後、春日社に寄進されたものか。後の康正二年造内裏段銭并国役引付にも、「春日御社領興福寺領若州耳西郷領家段銭」とみえ、鎌倉末―室町期は春日社(あるいは興福寺)が一貫して領家職を保持していたと考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by