日本大百科全書(ニッポニカ) 「育英館」の意味・わかりやすい解説
育英館
いくえいかん
(1)長門(ながと)(山口県北西部)清末(きよすえ)藩の藩校。1787年(天明7)に4代藩主毛利匡邦(もうりまさくに)によって創設された。匡邦は創設にあたり、周防(すおう)(山口県南東部)吉敷(よしき)毛利の臣で徂徠(そらい)学派の儒者片山鳳翩(ほうべん)を学頭に招き、学規を定めて藩校の基礎を築いた。のち6代藩主元世(もとよ)が佐藤一斎に師事したこともあって、学風は朱子学に変わり、また藩主自ら「諸士心得箇条」を著して教学の基本方針を示し、文武の興隆に意を尽くした。弘化(こうか)年間(1844~1848)には藩財政の窮乏もあって一時衰微したが、8代藩主元純(もとずみ)の嘉永(かえい)年間(1848~1854)に、ふたたび藩校の整備充実が図られた。学科はもっぱら漢学を課し、付帯して習礼、算法も教授した。
(2)肥前(長崎県)五島(ごとう)藩、陸奥(むつ)(福島県)中村藩、安房(あわ)(千葉県)加知山(かちやま)藩の藩校も、それぞれ育英館と称した。
[吉本一雄]
『『山口県教育史』(1925・山口県教育会)』▽『『下関市史 藩制――明治前期』(1964・下関市)』