興除新田(読み)こうじよしんでん

日本歴史地名大系 「興除新田」の解説

興除新田
こうじよしんでん

[現在地名]岡山市東疇ひがしうね内尾うちお中疇なかうね西疇にしうね曾根そね

児島湾奥の干潟干拓して成立した村。完成は文政六年(一八二三)。同年検地が行われ、八二五町余・高五千九六石七斗余。村名は「管子」のなかの「興利除害」という語から命名。東疇のうち東疇(六八六石余)・内尾(一千二六一石余)、中疇(一千二九〇石余)西疇のうち西疇(五三四石余)曾根(一千三二三石余)の五つに区分した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の興除新田の言及

【干拓】より

… 海面の干拓地は,江戸期には領主的立場から,その水田化がもっとも望まれていた。しかし周辺に流入する河川水は開発期の古い,上流部村々の設けたせきによる引水によってほぼ使いつくされてすでに十分の余裕がなく,1823年(文政6)に完成した備前児島湾岸の興除新田も,幕府倉敷代官の絶大な援助の下,高梁川上流の湛井十二ヵ郷用水の末を庄村から引く東用水路,それより下流の同じ高梁川岸の酒津から引水する八ヵ郷用水の定水川の流末を引く西用水路の2本が造られたものの,西用水路からの水はしばらくで不通となり,現在に至っても東用水路の流末村庄の余水を受けている実情である。また肥後の玉名郡横島新田でも,菊池川本流からの引水施設の完成までは,一面の畑地であり,粟その他の雑穀を主とし,施工者有吉家が,新田造成に働く農民労働者への給与を粟で行っていた事実からも,開発当初の作付状況を察しうるのである。…

【児島湾】より

…高梁(たかはし)川,笹ヶ瀬川,旭川,吉井川の堆積作用で近世初頭には児島が陸繫され,西側は阿知潟,東側は児島湾となった。湾は北岸から干拓が進められたが,大規模なものとして17世紀の沖新田,19世紀の興除新田,明治期の藤田組による藤田開墾(藤田農場),第2次大戦後の六区および七区がある。1963年の七区完工により干拓事業は終了した。…

【田】より

…享保期(1716‐36)にかけては信濃川,阿賀野川下流地帯にも商人の資力による開田が進む。これら海岸平野の田には水利に苦しむものも少なくなく,岡山の興除新田などは旧用水の流末の余水を使っている。これらの土地は後に治水・灌漑が完備する昭和期には全国有数の高生産力地帯となる。…

※「興除新田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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