八ヶ郷用水
はつかごうようすい
東高梁川に設けられた酒津堰から取水し、旧窪屋郡中南部と旧都宇郡の一部を灌漑する農業用水。天正一三年(一五八五)八月の覚(尾崎文書)には起源を次のように記す。同一二年八月、庭瀬城(現岡山市)にいた宇喜多秀家の家臣岡利勝は当時開発を進めていた新田の用水確保のため、宮内(現岡山市)の西まで出向き、板倉橋下(現倉敷市日畑か)から湛井用水を引く計画を立案したが高低の関係で断念した。その後九月に湛井(現総社市)へおもむき、高梁川の川筋を検分したうえで酒津から取水することとし、浜村の四郎三郎の所に逗留し、千原九郎右衛門に命じて井手筋に示を立てさせた。翌一三年一月に鍬初めをして水路を掘り、次いで三月には樋を調えた。新旧の二水路に等分に配水するため樋は四寸に定められ、樋守には浜村の四郎三郎が命じられた。八ヵ郷とは、浜・子位庄・東阿知(生坂・西坂)・三田・西庄(平田・福島・大島)・五日市・二日市、早島(現都窪郡早島町)の各村であるとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報