船場渡
ふなばのわたし
江戸時代の日野川を渡河する出雲街道の渡場。鳥取藩の藩営で、同川左岸の船場村から南西対岸の根雨宿に渡る。「在方御定」寛永一七年(一六四〇)七月一九日条に「舟場」とみえ、八幡(現米子市)・溝口(現溝口町)とともに渡守給米二俵の加増があったことが知られ、これ以前の設置と考えられる。陸路八町の行程時間を要したので八町渡ともいわれ、溝口・黒坂とともに日野郡内三公設船渡場であった(日野郡史)。享保一一年(一七二六)の「因伯地理志」によると、渡場の川幅二〇間・深さ四尺、洪水時は二、三日通行不能、上流一町の地は徒渉可能で、深さ二尺五寸。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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