出雲街道(読み)いずもかいどう

日本歴史地名大系 「出雲街道」の解説

出雲街道
いずもかいどう

出雲国から伯耆国会見あいみ郡・日野郡を経て四十曲しじゆうまがり峠を越え、美作津山を経て播磨国姫路へ至り、畿内へと結ぶ道。雲州街道・出雲往来ともいう。伯耆国西部から京・大坂方面へ向かう道であったから、上方かみがた往来とも称された。「出雲国風土記」にみえる「国の東の堺なる手間の」を伯耆国の手間(現会見町天万)へ向かう道と解し、古代には出雲国から伯耆へ通じる路があったとする説があり、また「手間の」を島根県伯太はくた安田やすだ周辺とする説が有力であるが、古代の出雲―伯耆を結ぶ道筋については不詳。中世、承久の乱ののち隠岐国へ配流となった後鳥羽上皇や、元弘二年(一三三二)に同じく隠岐へ配流となった後醍醐天皇は、美作から伯耆を経て出雲の安来へ至り、同所から海路隠岐へ向かう道順をとったという(「太平記」など)。この陸路は古代の官道山陰道とは異なる道筋であり、美作から中国山地を越え伯耆―出雲へ至る道が中世には主要経路となっていたのであろう。

近世の出雲街道の形成は、米子城と出雲松江城の整備された江戸時代初期、慶長五年(一六〇〇)以降と考えられる。寛永一四年(一六三七)の駄賃銀宿賃書付(在方御定)には安来―米子―江尾えび(現江府町)溝口みぞくち(現溝口町)二部にぶ(現同上)根雨ねう(現日野町)板井原いたいばら(現同上)―美作新庄しんじよう(現岡山県新庄村)間の里程・駄賃・宿賃が書上げられており、池田光仲入部後まもなく鳥取藩領内の主要街道として整えられたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出雲街道」の意味・わかりやすい解説

出雲街道
いずもかいどう

出雲の国と山陽地方各地を結ぶ街道。出雲大社への参詣や出雲からの上洛の道であった。一般に京都を起点とし,姫路,上月江見,津山を経て四十曲峠を越え日野川の谷から出雲にいたる道をいう。古くは播磨から因幡に抜け,鳥取から海路出雲へ出る道,尾道から三次を経て出雲に出る道もそれぞれ出雲街道と呼ばれた。近世に入って四十曲峠を通る街道は出雲,石見諸大名参勤交代路とされた。現在ではそれぞれ国道となっている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の出雲街道の言及

【島根[県]】より

…中国山地を横断して山陽と連絡する鉄道としては,37年に木次(きすき)線(木次~備後落合),75年には三江(さんこう)線(江津~三次(みよし))が開通した。近世の街道は日本海沿いを東西に走る山陰道のほか,出雲街道(松江~四十曲峠~姫路),芸石街道(浜田~市木~広島)など南北を結ぶ街道があった。現在は山陰道の後身にあたる国道9号線,松江~三次~広島を結ぶ旧三次街道の54号線,江津~浜田~大竹を結ぶ186号線が主要道路である。…

※「出雲街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android