日本大百科全書(ニッポニカ) 「船氏王後墓誌」の意味・わかりやすい解説
船氏王後墓誌
ふなしおうごのぼし
敏達(びだつ)朝に生まれ、推古(すいこ)・舒明(じょめい)両朝に仕えた渡来系の官人、船王後の墓誌。江戸時代に大阪府柏原(かしわら)市国分の松岳山(まつおかやま)から出土。墓誌は、鍛造(たんぞう)の銅板(縦29.7センチメートル、横6.8センチメートル)で、表裏ともに各四行162字の銘文を刻む。銘文により、王後は船氏の中祖王智仁の孫、那沛故(なはこ)の子で、推古・舒明両朝に仕えて、舒明天皇から603年(推古天皇11)制定の十二階冠位の第三等にあたる「大仁(だいにん)」を賜り、641年(舒明天皇13)に没し、668年(天智天皇7)、夫人安理故能刀自(ありこのとじ)とともに、大兄刀羅古(とらこ)の墓に並ぶ墓をつくり葬られたことが知られる。日本最古の墓誌であるが、文中の「官位」という用語や、闕字(けつじ)の礼(れい)を施している点からみて、墓誌は、天武(てんむ)朝末年以降の追納とする説が有力である。国宝。
[大脇 潔]