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第34代とされる天皇(在位629~641)。名は田村(たむら)。和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。押坂彦人大兄(おさかのひことのおおえ)皇子(敏達(びだつ)天皇の皇子)の皇子。母は糠手姫(あらてひめ)皇女。即位にあたっては朝廷が紛糾し、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)(聖徳太子の子)を推す声も強かったが、大臣蘇我毛人(蝦夷)(そがのえみし)の支持を得て即位し、岡本宮に入った。こうした経緯もあって、政界はまとまらず独自の政策も目だたなかったが、この治政下、百済(くだら)王子豊璋(ほうしょう)、唐使高表仁(こうひょうじん)の渡来や蝦夷(えみし)征討などがあった。治政11年(639)から百済川畔に百済大宮、百済大寺の造営を命じ、翌年、百済宮に移ったが、九重塔をもつ百済大寺は完成後ほどなく焼失した。その翌年10月、天皇は百済宮で没した。陵墓は奈良県桜井市の押坂内陵。
[門脇禎二]
7世紀前半の第34代に数えられる天皇。在位629-641年。名を田村皇子といい,和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。高市岡本宮天皇などともいう。敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の子,母は敏達天皇皇女の糠手姫(ぬかてひめ)/(あらてひ)め皇女。628年(推古36)3月の推古天皇の死後,大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)が大夫(まえつぎみ)らを召集して次期天皇のことを諮ったが,田村皇子支持派と山背大兄王(聖徳太子の子)支持派に分かれてすぐに結論が出ず,蝦夷の意向によって翌年正月に田村皇子が即位した。天皇の治世は,東アジアの国際情勢が緊迫の度を加えていたが,国内の政情は比較的平穏で,天皇は631,638年に摂津の有間温湯(ありまのゆ),639年に伊予温湯(いよのゆ)に行幸した。また636年に飛鳥岡本宮が焼けて田中宮に移っていたが,639年から東西の民を徴発して百済宮と百済大寺を造り始め,翌年田中宮から百済宮に移って,その翌年にここで世を去った。天皇は宝皇女(皇極女帝)を皇后として中大兄皇子(天智),大海人皇子(天武),間人皇女(孝徳皇后)をもうけ,大臣蘇我馬子の女の法提郎媛(ほほてのいらつめ)をめとって古人皇子が生まれた。《万葉集》巻一に雑歌その他がある。
執筆者:関 晃
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593~641.10.9
在位629.1.4~641.10.9
系譜上の第34代天皇。田村皇子・息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇と称する。父は押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子,母はその異母妹の糠手姫(あらてひめ)皇女。敏達天皇の孫。姪の宝皇女(皇極天皇)を皇后として中大兄皇子(天智天皇)・大海人(おおあま)皇子(天武天皇)らを,また蘇我馬子(うまこ)の女法提郎女(ほほてのいらつめ)との間に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子をもうけた。推古天皇の没後に皇位をめぐり,田村皇子を推す大臣の蘇我蝦夷(えみし)と,山背大兄王(聖徳太子の子)を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)が対立し,摩理勢は蝦夷らによって攻め殺され,田村皇子が即位した。630年(舒明2)には犬上御田鍬(みたすき)が第1回遣唐使として唐に渡り,翌年には唐使の高表仁(こうひょうじん)が来日した。
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(仁藤敦史)
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