舒明天皇(読み)ジョメイテンノウ

デジタル大辞泉 「舒明天皇」の意味・読み・例文・類語

じょめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【舒明天皇】

[593~641]第34代の天皇在位629~641。名は田村皇子息長足日広額尊おきながたらしひひろぬかのみこと敏達天皇の孫。蘇我蝦夷そがのえみしらに擁立されて即位飛鳥あすか岡本宮遷都

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共同通信ニュース用語解説 「舒明天皇」の解説

舒明天皇

舒明じょめい天皇 第34代天皇、在位629~641年。日本書紀によると、推古天皇没後、蘇我蝦夷えみしらに推されて即位した。初めて遣唐使を送ったほか、日本初の国立寺院「百済大寺くだらおおでら」の造営を発願。642年に滑谷岡なめはざまのおかに葬られ、643年に押坂陵おしさかのみささぎに改葬された。天智天皇(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)や、壬申の乱で勝利した天武天皇の父に当たる。天皇陵に初めて八角形墳を採用したとされ、奈良県桜井市の段ノ塚だんのづか古墳を宮内庁が舒明天皇陵として管理している。

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精選版 日本国語大辞典 「舒明天皇」の意味・読み・例文・類語

じょめい‐てんのう‥テンワウ【舒明天皇】

  1. 第三四代の天皇。忍坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子。母は糠手姫皇女。名は田村皇子。諡は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。六二九年蘇我蝦夷に擁立されて即位。翌年飛鳥(あすか)岡本宮に遷都。在位一三年。推古天皇元~舒明一三年(五九三‐六四一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「舒明天皇」の意味・わかりやすい解説

舒明天皇
じょめいてんのう
(593―641)

第34代とされる天皇(在位629~641)。名は田村(たむら)。和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。押坂彦人大兄(おさかのひことのおおえ)皇子(敏達(びだつ)天皇の皇子)の皇子。母は糠手姫(あらてひめ)皇女。即位にあたっては朝廷が紛糾し、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)(聖徳太子の子)を推す声も強かったが、大臣蘇我毛人(蝦夷)(そがのえみし)の支持を得て即位し、岡本宮に入った。こうした経緯もあって、政界はまとまらず独自の政策も目だたなかったが、この治政下、百済(くだら)王子豊璋(ほうしょう)、唐使高表仁(こうひょうじん)の渡来や蝦夷(えみし)征討などがあった。治政11年(639)から百済川畔に百済大宮、百済大寺の造営を命じ、翌年、百済宮に移ったが、九重塔をもつ百済大寺は完成後ほどなく焼失した。その翌年10月、天皇は百済宮で没した。陵墓は奈良県桜井市の押坂内陵

[門脇禎二]

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改訂新版 世界大百科事典 「舒明天皇」の意味・わかりやすい解説

舒明天皇 (じょめいてんのう)
生没年:593?-641

7世紀前半の第34代に数えられる天皇。在位629-641年。名を田村皇子といい,和風諡号(しごう)は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。高市岡本宮天皇などともいう。敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の子,母は敏達天皇皇女の糠手姫(ぬかてひめ)/(あらてひ)め皇女。628年(推古36)3月の推古天皇の死後,大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)が大夫(まえつぎみ)らを召集して次期天皇のことを諮ったが,田村皇子支持派と山背大兄王(聖徳太子の子)支持派に分かれてすぐに結論が出ず,蝦夷の意向によって翌年正月に田村皇子が即位した。天皇の治世は,東アジアの国際情勢が緊迫の度を加えていたが,国内の政情は比較的平穏で,天皇は631,638年に摂津の有間温湯(ありまのゆ),639年に伊予温湯(いよのゆ)に行幸した。また636年に飛鳥岡本宮が焼けて田中宮に移っていたが,639年から東西の民を徴発して百済宮と百済大寺を造り始め,翌年田中宮から百済宮に移って,その翌年にここで世を去った。天皇は宝皇女(皇極女帝)を皇后として中大兄皇子(天智),大海人皇子(天武),間人皇女(孝徳皇后)をもうけ,大臣蘇我馬子の女の法提郎媛(ほほてのいらつめ)をめとって古人皇子が生まれた。《万葉集》巻一に雑歌その他がある。
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百科事典マイペディア 「舒明天皇」の意味・わかりやすい解説

舒明天皇【じょめいてんのう】

敏達(びだつ)天皇皇子押坂彦人大兄(おしさかひこひとおおえ)皇子の子。628年推古天皇の没後,蘇我蝦夷(えみし)に擁立されて即位。宮居は大和の飛鳥岡本宮。在位中,遣唐使の派遣,百済(くだら)宮の造営などがあったが,蘇我氏の勢力が飛躍的に伸長した時代でもあった。
→関連項目厩坂忍坂皇極天皇山背大兄王

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「舒明天皇」の解説

舒明天皇 じょめいてんのう

593-641 飛鳥(あすか)時代,第34代天皇。在位629-641。
推古天皇元年生まれ。彦人大兄(ひこひとのおおえの)皇子の王子。母は糠手姫(ぬかてひめの)皇女(田村皇女)。推古天皇の没後,山背大兄(やましろのおおえの)王と皇位をあらそい,蘇我蝦夷(そがの-えみし)に推され即位。皇后は宝皇女(のち皇極・斉明天皇)。犬上御田鍬(いぬかみの-みたすき),薬師恵日(くすしの-えにち)らを第1回遣唐使として派遣。百済(くだら),新羅(しらぎ)とも関係をふかめた。舒明天皇13年10月9日死去。49歳。墓所は押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(奈良県桜井市)。諱(いみな)は田村。別名に息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと),高市天皇,岡本天皇。
【格言など】大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ天の香具(かぐ)山 登り立ち国見をすれば 国原は煙(けぶり)立ち立つ 海原は鴎(かまめ)立ち立つ 怜〓(“りっしんべん”に「可」)(おもしろ)き国ぞ 蜻島(あきづしま)大和の国は(「万葉集」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「舒明天皇」の解説

舒明天皇
じょめいてんのう

593~641.10.9

在位629.1.4~641.10.9

系譜上の第34代天皇。田村皇子・息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇と称する。父は押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子,母はその異母妹の糠手姫(あらてひめ)皇女。敏達天皇の孫。姪の宝皇女(皇極天皇)を皇后として中大兄皇子(天智天皇)・大海人(おおあま)皇子(天武天皇)らを,また蘇我馬子(うまこ)の女法提郎女(ほほてのいらつめ)との間に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子をもうけた。推古天皇の没後に皇位をめぐり,田村皇子を推す大臣の蘇我蝦夷(えみし)と,山背大兄王(聖徳太子の子)を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)が対立し,摩理勢は蝦夷らによって攻め殺され,田村皇子が即位した。630年(舒明2)には犬上御田鍬(みたすき)が第1回遣唐使として唐に渡り,翌年には唐使の高表仁(こうひょうじん)が来日した。

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朝日日本歴史人物事典 「舒明天皇」の解説

舒明天皇

没年:舒明13.10.9(641.11.17)
生年:推古1(593)
7世紀の天皇。諱は田村皇子。和風諡号は息長足日広額天皇。高市天皇,岡本天皇とも称する。敏達天皇の孫。押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女(田村皇女)の子。天武・天智両天皇,間人皇女らの父。山背大兄王と推古天皇没後の後継者を争い,大臣蘇我蝦夷の支持により即位。舒明2(630)年,犬上御田鍬,薬師恵日を使人とする第1回遣唐使派遣は特筆される。宮は,はじめ飛鳥岡本宮(奈良県明日香村)に居したが,火災により田中宮(橿原市)へ一時移り,晩年には百済大宮と百済大寺(ともに奈良県広陵町か)を造営した。陵墓は押坂内陵(桜井市の段ノ塚古墳)。皇極2(643)年に滑谷岡(明日香村)から改葬したと伝える。

(仁藤敦史)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「舒明天皇」の意味・わかりやすい解説

舒明天皇
じょめいてんのう

[生]推古1(593).大和
[没]舒明13(641).10.9.
第 34代の天皇 (在位 629~641) 。名は息長足日広額尊 (おきながたらしひひろぬかのみこと) ,また田村。敏達天皇の皇孫にあたる。押坂彦人大兄皇子の子,母は糠手姫皇女。舒明1 (629) 年即位。翌年宝皇女 (のちの皇極天皇,さらに重祚して斉明天皇) を皇后に立て,都を大和の飛鳥岡本宮に遷した。その治世中は蘇我蝦夷,入鹿が絶大な権力を有していた。陵墓は奈良県桜井市大字忍阪の押坂内陵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「舒明天皇」の解説

舒明天皇
じょめいてんのう

593〜641
7世紀前期の天皇(在位629〜641)
敏達 (びだつ) 天皇の孫。天智天皇の父。推古天皇の死後,皇位継承問題で聖徳太子の子山背大兄王 (やましろのおおえのおう) と争った。蘇我蝦夷 (えみし) の援助で即位し,630年飛鳥岡本宮に遷都。天皇を推した蘇我蝦夷・入鹿父子が大臣 (おおおみ) として権勢をふるった。

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