芋河庄(読み)いもかわのしよう

日本歴史地名大系 「芋河庄」の解説

芋河庄
いもかわのしよう

平安時代末期から太田おおた庄とともに近衛家領であった。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の年貢未済の荘園の中に「殿下御領芋河庄」とみえる。また、建長五年(一二五三)の近衛家所領目録によれば、芋河庄に「高陽院領内」と注している。高陽院は関白藤原忠実一女で、鳥羽上皇の皇后宮となり、高陽院と号した藤原泰子で、元来は忠実から泰子に譲られた所領であったため高陽院領とよばれた。その後、高陽院領は藤原忠通・二条天皇中宮育子・藤原基実を経て近衛頼通に伝領された。また同目録に「師光」の注がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

乞巧奠〈公事十二ケ月絵巻〉〘 名詞 〙 陰暦七月七日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、宮中の節会(せちえ)としてとり入れられ、在来の棚機津女(たなば...

乞巧奠の用語解説を読む