朝日日本歴史人物事典 「若狭忠清」の解説
若狭忠清
鎌倉中期の武将。若狭忠季の子。通称四郎。法名定連。承久の乱(1221)で討死した父のあとを継ぎ,若狭国守護および同国遠敷・三方両郡総地頭などに補せられた。地頭支配を強力に推進,当国における若狭氏支配の基礎を築いた。しかし,東寺領太良荘(福井県小浜市)では預所代定宴 や荘内有力百姓と度々相論に至り,寛元1(1243)年,地頭の非法を訴える百姓らと六波羅探題で対決したが,地頭代罷免の裁決を受けた。また宝治1(1247)年,荘務権をめぐる預所代定宴との相論でも「地頭之違乱」とされて敗北,太良荘の地頭支配は一旦挫折した。
(林文理)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報