日本歴史地名大系 「草津城跡」の解説
草津城跡
くさつじようあと
草津市街地の北部を占める標高五〇メートル余の小丘にある。旧山陽道を押え、広島湾の西部湾頭を扼する枢要の地にあたる。築城年代は不詳。羽仁家家譜(「閥閲録」所収羽仁右衛門家文書)に「羽仁越前守有繁始右衛門尉、右安芸国佐伯郡之内草津・己斐此近辺領知、草津ニ居城仕候」とあり、初め厳島社神領衆羽仁氏が居城した。天文二三年(一五五四)六月二八日付の毛利元就宛行状(「閥閲録」所収児玉惣兵衛家文書)に「草津要害」、同二四年正月七日付の大内義長感状(お茶の水図書館蔵白井文書)に「草津城」、「芸藩通志」に「田方城」と記される。
大永四年(一五二四)六月七日付の大内氏奉行人連署書状(山口県文書館蔵)に「去年大永三以来令随逐弘中々務丞、於草津于今在城誠神妙之旨」とあり、同三年以前から城のあったことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報