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毛利氏 もうりうじ

5件 の用語解説(毛利氏の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

毛利氏
もうりうじ

鎌倉時代,大江広元の子季光に始る中国地方の豪族。広元が相模国毛利荘をあてがわれ,その子季光が跡を継ぎ,その名を取って毛利氏と称した。承久の変後,季光は安芸国吉田荘地頭職を得て相伝され,南北朝時代以降ここを拠点として勢力を伸ばした。

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百科事典マイペディアの解説

毛利氏【もうりうじ】

戦国大名,近世の大名。祖は大江広元の子季光(すえみつ)で,相模国毛利荘に住し毛利氏を称した。1270年時親は父経光(季光の子)より安芸(あき)国吉田荘地頭職を譲られ,以後一族は国衆として勢力を伸張。
→関連項目安芸国尼子晴久陰徳太平記大田荘吉川氏口和[町]小早川氏周防国益田氏村上水軍毛利家文書山口[県]

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防府市歴史用語集の解説

毛利氏

 室町時代は安芸[あき]国吉田の地方領主でしたが、毛利元就[もうりもとなり]の時代になってから、戦国大名として次第に勢力をのばし、中国地方の多くを支配下としましたが、関ケ原[せきがはら]の戦いでは豊臣家に味方したため、以後は、周防[すおう]・長門[ながと]の2ヶ国に領地を減らされました。

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世界大百科事典 第2版の解説

もうりうじ【毛利氏】

(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

毛利氏
もうりうじ

鎌倉幕府政所別当(まんどころべっとう)、大江広元(おおえのひろもと)の四男季光(すえみつ)が、相模国(さがみのくに)毛利荘(もりのしょう)(神奈川県厚木市)を領し毛利姓を称したのに始まる。中世の読みは「もり」。季光は、1247年(宝治1)三浦泰村(みうらやすむら)の乱(宝治合戦(ほうじかっせん))にくみして3人の子息とともに戦死した。しかし、越後国(えちごのくに)佐橋荘(さばしのしょう)(新潟県柏崎(かしわざき)市)に居住し、同荘と安芸国(あきのくに)吉田荘(よしだのしょう)(広島県安芸高田(たかた)市吉田町)を所領とした四男経光(つねみつ)は、この乱に関与せず、その子孫は越後と安芸に分かれて存続した。
 越後毛利氏は、経光の嫡子基親(もとちか)に始まるが、その系譜は諸説あり不明な点も多い。佐橋荘を相伝した道幸の代に室町幕府から鵜川荘(うかわのしょう)安田(やすだ)条(柏崎市)を宛行(あておこな)われ、その子孫は、北条(きたじょう)姓、安田姓などを称したが、毛利姓でよぶ場合も多く、戦国期はともに上杉家臣。なかでも北条高広(たかひろ)は、上杉謙信(けんしん)の重臣として厩橋(うまやばし)(群馬県前橋市)に居城した。
 安芸毛利氏は、経光から吉田荘1000貫を譲与された四男の時親(ときちか)が、南北朝期初頭に吉田荘の郡山(こおりやま)に移住して居城を構えたのに始まる。応仁(おうにん)の乱(1467~77)の間に豊元(とよもと)は、大内氏から安芸国賀茂(かも)郡(広島県賀茂郡)内で1000貫などを宛行われ所領を拡大、以後大内氏に従属したが、戦国期の元就(もとなり)の代に大内氏から自立し、1557年(弘治3)に大内氏を、1566年(永禄9)には尼子(あまご)氏を滅ぼして中国地方10か国を領有する戦国大名となった。孫の輝元(てるもと)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従属し、1591年(天正19)秀吉から8か国、112万石を安堵(あんど)され、広島城(広島市)に本拠を移したが、関ヶ原の戦い(1600)に敗れ、徳川家康に周防(すおう)、長門(ながと)の2か国に領国を削減されて萩(はぎ)(山口県萩市)に居城した。江戸時代は、公称高36万9000余石で長州藩主。幕末の藩主敬親(たかちか)は、藩府を山口に移し討幕を推進、維新後、元徳(もとのり)は山口藩知事となり、のち公爵となった。[舘鼻 誠]
『渡辺世祐著『毛利元就卿伝 上巻』(1944・六盟館) ▽渡辺世祐監『毛利輝元卿伝』(1982・マツノ書店) ▽関久著『越後毛利氏の研究』(1965・上越郷土研究会) ▽三坂圭治著『山口県の歴史』(1971・山川出版社) ▽河合正治著『安芸毛利一族』(1984・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の毛利氏の言及

【安芸国】より

…すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。これに対し大内義興も18年に帰国,23年から芸備に進出し翌年桜尾城を陥れ,毛利氏も大内方となって武田氏は孤立した。33年(天文2)には熊谷氏が毛利方につき,また白井・香川・己斐の諸氏まで武田を離れ,内部から崩壊し始めた。…

【石見銀山】より

…1533年(天文2)博多商人神谷寿禎が吹工を伴ってきて銀の製錬に成功した。産銀増加とともに,大内・尼子・毛利氏の間に銀山争奪戦が反復され,銀山に山吹城があり,南西方の降路坂の南に矢滝城があり銀山の押えに当たった。62年(永禄5)毛利氏が銀山を確保し,やがてこれを室町幕府と朝廷に料所として献じ銀を貢納した。…

【石見国】より

…この時期の石見国人層としては,益田氏とその庶流三隅氏・福屋氏・周布氏などのほか,鎌倉期に石見に入部した吉見氏・小笠原氏・佐波氏・出羽氏などがあり,それぞれに自立的な勢力として各地に割拠した。戦国期の1521年(大永1)以後,石見国はたびたび雲州尼子氏の攻撃を受け,東部はその勢力下におかれたが,56年(弘治2)以後は芸州毛利氏の領国となり,70年(元亀1)毛利氏による石見平定が成った。この間,1526年石見銀山が大内氏によって開発され,以後慶長までの間に9回も領有権者が交替するなど,石見国における激しい戦乱の一源泉となった。…

【尾道[市]】より

…尾道,田島の船などが遣明船に使用されているが,この地方にはこれらを所有する海運業者がおり,こうした大船を造船できる技術も発達していたことがうかがえる。応仁の乱後,毛利氏の勢力が強くなり,尾道は毛利氏の直轄領となり,1512年(永正9)ごろには尾道奉行の存在が知られる。天正年間(1573‐92)ごろに渋谷与右衛門,泉屋一相,笠岡屋又左衛門は毛利氏より知行地をあてがわれた。…

【九州征伐】より

…その報を聞き,全国統一を画していた秀吉は,85年10月,勅を奉じて島津義久を諭し,大友氏と和を図らせる停戦令を出したが,島津氏は〈秀吉は由来なき仁,返書は笑止〉として応諾しなかったばかりか,島津氏の行動を正当とし,対決姿勢を示した。秀吉は翌86年3月,九州国分(くにわけ)策として肥後半国と筑後を大友氏に,肥前1国を毛利氏に,筑前は京都より知行,それ以外は島津氏領国にすると提案するとともに,大友氏の島津氏征服の強い要請により,毛利氏に軍事動員を指示して,島津氏からの返書を待った。しかし,7月に大友氏から島津氏は同心せずの書状を得て,秀吉みずから遠征の意を決めた。…

【国一揆】より

…一揆は瓦解し,一揆衆の所領没収もおこなわれた。けれども,以後安芸国では,中央権力と地域の大名大内氏との拮抗地帯であるという地域的特性,国人領主間の婚姻関係に基づく盟約などが基盤になって,衆中相論の調停機能をもつ領主連合が強化され,1512年(永正9)の国衆一揆を経て戦国期には大内氏の影響下で毛利氏を中心にいっそう進展し,大内氏滅亡後は毛利氏を盟主とする国衆間の一揆的結合に基づく支配形態が確立した。 そこで注目されるのは,領主の人格的支配権に属する下人・中間(ちゆうげん)や領域内の負債農民らが逃散した場合,お互いに人返しをおこなって彼らを緊縛する協約が,毛利氏家中や所領を隣接する2国衆間ではすでに16世紀初めに成立していたが,1560年代初めには戦国大名毛利氏の主導のもとに安芸国衆全体で締結されていることである。…

【郡代】より

…守護,戦国大名の領国支配機構は守護代の下に郡単位に郡代を置いている場合がある。比較的その実態が明らかな大内氏(周防,長門が本国で豊前,筑前をも領国とする),大内氏を滅ぼして防長両国を征服,支配した毛利氏を例に以下その特徴を指摘する。 大内氏領国の郡代の職務は,管郡内の寺社・給人へ大内氏の命令を伝達するとともに管内の諸種の事柄を大内氏に注進する,郡帳(郡支配の基礎になる土地台帳)を掌握して管内の下地を管理する,管内から諸役(段銭等の公役(くやく)や郡夫など)を徴収するとともにそれらを管理し,かつ用途に付する,在地に対して裁判権を行使することで,また筑前では郡代が城督(城奉行)を兼ねて軍事的機能をあわせ掌握している例もある。…

【石高制】より

…貫高を用いるか石高を用いるかは,この場合は土地制度の地域的慣習に根ざしたもので,たとえ石高表示でも土地の総生産額の把握には及んでいない。たとえば毛利氏の場合,旧大内氏の領国であった周防・長門では石高が,その他の地域では貫高が用いられたが,便宜上これを1貫=1石に換算することで等質とみなしていた事実が報告されている。 石高制の成立過程を考えるうえで,永禄(1558‐70)末年から天正(1573‐92)初年に近江で出された織田信長の領中方目録,豊臣秀吉の知行宛行状,寺社への寄進状は重要な手がかりとなろう。…

【周防国】より

…観応の段階での権力構成は同族結合という鎌倉期的様相を脱していないが,国人出身の直臣(じきしん)を取り立てて権力の一翼とし,同族および有力直臣を管国の守護代に任じて地域支配体制を整備するとともに,政庁の奉行人・評定衆を構成したが,それにつれて山口は領国の中心として発達し,歴代の京都との接触と外国貿易の影響により多彩な大内文化を作り上げた。
[毛利氏の支配]
 大内氏滅亡後防長をはじめ中国地方をほぼ全域にわたって支配下におさめた毛利氏は,一時的に毛利氏五人奉行に旧大内氏奉行人若干名を加えた奉行人組織により戦後処理を行い,大内時代の地域支配機構たる郡司制を継承した。輝元時代にはその上に吉敷,佐波2郡と長門を管轄する山口奉行と,周防4郡(大島,玖珂,熊毛,都濃)段銭奉行とを置き支配体制を整備した。…

【瀬戸内海】より

…対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。
[戦国期]
 戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年(弘治1)の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年(元亀2)能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年(天正10)来島氏が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。塩飽海賊も三好氏が細川氏の実権を握るとその水軍に編成され,さらに信長の進出につれて,その水軍として軍用物資輸送などに活躍し,豊臣秀吉も塩飽島民を御用船方に任じ,塩飽全島を領知させてその功に報いた(人名(にんみよう)制)。…

【大名】より

… (1)国主大名とは1ヵ国以上の国を領有する大名,1国に近い土地を領有するか,もしくは領地高が多い大名をいい,家数は時代によって変遷するが,おおむね幕末では次のとおりである。前田氏(加賀・能登等102万石余を領し金沢に住する),島津氏(薩摩・大隅等77万石余,鹿児島),黒田氏(筑前52万石,福岡),浅野氏(安芸等42万石余,広島),毛利氏(周防・長門36万石余,萩,幕末に山口へ移る),池田氏(因幡・伯耆32万石,鳥取),池田氏(備前等31万石余,岡山),蜂須賀氏(阿波・淡路25万石余,徳島),山内氏(土佐24万石,高知),宗氏(対馬10万石格,府中)の10家が1国以上を領有する大名としてあげられる。宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。…

【長州藩】より

…表高は36万9411石余だが,明治初年の実高は98万8000石余とされる。戦国大名として安芸国を中心に,中国地方8ヵ国120万石を領有した毛利氏は,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で毛利輝元(元就の孫)が豊臣方に加わり,ために敗戦後,徳川氏によって削封され,周防,長門の2ヵ国に封じられた。以後この2ヵ国を長州藩の領域として明治維新にいたる。…

【長門国】より

…1557年(弘治3)に大内義長を長府で自殺させて防長を握った毛利元就・隆元父子は,前守護代内藤隆世の弟隆春を守護代としたが,長門国支配には周防守護代市川経好も関与させた。毛利氏は大内氏以上に在地把握を強化し,畠,屋敷をも把握する方向を示した。一方農民は戦乱に乗じて反毛利勢力と結んで一揆を起こし,長門でも一揆の基盤といわれる村落の惣(そう)結合がみられ,領主の収奪強化に抵抗する動きがみられる。…

【村上水軍】より

…戦国時代には来島通康が河野通直の女婿として河野家中に重きをなしたほか,能島武吉,因島吉充が活躍した。厳島の戦以降,小早川隆景を介して毛利氏に属し,石山合戦では1576年(天正4)織田水軍を木津河口に破って本願寺に兵糧を入れた。三島村上氏のうち来島通総は82年毛利氏に背いて羽柴(豊臣)秀吉の勧誘に応じ,その功により来島1万4000石を安堵された。…

【吉田[町]】より

…可愛(えの)川の中流域に位置し,周囲を山に囲まれる。当町域一帯は平安時代末期に祇園社領吉田荘とされ,領家は花山院家,地頭は毛利氏であった。北東流する可愛川に多治比川が合流するあたり,沖積地にある吉田はその中心地で,南北朝期以降毛利氏はここに郡山(こおりやま)城を築いて本拠とし,1591年(天正19)毛利輝元が広島城に移るまで城下町として栄えた。…

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