古江村(読み)ふるえむら

日本歴史地名大系 「古江村」の解説

古江村
ふるえむら

[現在地名]北浦町古江

現北浦町の南部、古江川下流域に位置し、南は海に面する。東は市振いちぶり村、北は三川内みかわうち村、西は熊野江くまのえ(現延岡市)。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高一七〇石。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)でも高一七〇石であるが、ほかに出高として一一石余がある。また新田高一五石余がみえ、ほかに新田出高一一石余がある。正徳二年(一七一二)の村明細帳(北浦町役場蔵)によると、延宝七年(一六七九)と宝永二年(一七〇五)に検地が行われており、田高六〇石余・反別六町五反余、畑高一五四石余・反別二九町四反余。等級別内訳は上田六反余・中田一町一反余・下田二町五反余・下々田二町一反余、上畑七町八反余・中畑六町一反余・下畑七町一反余・山畑八町三反余で、上畑のうち一町九反余が水夫、一反が庄屋、四畝が鍛冶、四畝が山廻り、二畝が郷蔵の屋敷引地となっている。新地は三六石余で、反別は田一町七反余・畑二三町四反余、うち一反余が庄屋給地、二畝余が昌雄しようおう寺屋敷。年貢は米・大麦・小麦・麻苧などの現物納のほか、小物成の真綿・鶏羽・椿実・鯛や木物成などは代銀納とされた。運上銀として手船・糀場・酒場・紀州まかせなどがあった。村外へ売出す品品としてゆすむさ・車ノ羽・矢木・鍬の柄・櫛木などがあり、口屋番所へ口銀を納めて船積みしている。


古江村
ふるえむら

[現在地名]西区古江上ふるえうえ一―二丁目・田方たがた一―三丁目・古江東ふるえひがし町・古江西ふるえにし町・高須たかす一―四丁目・古江新ふるえしん

己斐こい村の南西にあり、草津くさつ村を東南を除く三方から包み込むようにして位置する。西側に北からおにじよう山・すずヶ峰があるのをはじめ、ほぼ山に囲まれ、その谷間と東南にわずかに開けた海岸砂州平野と埋立地に集落があり、沿岸部を山陽道が通る。村名について「国郡志下調書出帳」は「古ヘ天子ノ御船着シ、古キ入江之故事ニ古江唱ヘ来リ候」と記す。同書出帳にみえる村内海蔵かいぞう寺の永正三年(一五〇六)の鐘銘に「久曾津村」とみえ、古くは草津村と一村であったらしい。毛利氏時代のことを記した元和五年(一六一九)七月一三日付の厳島社社家供僧内侍三方給地等付立(厳島野坂文書)に「古郷」とみえる。

房顕覚書」に「神領分、上ハ己斐、草津」とあるから、中世には当地一帯も草津と同じく厳島社領であったと考えられる。


古江村
ふるえむら

[現在地名]甘木市福光ふくみつ

四郎丸しろうまる村の北東、かつら川下流域の平野に位置する。下座げざ郡に属し、北西は坂井さかい村、北は城力じようりき村など。福岡藩成立後は同藩領となるが、元和九年(一六二三)支藩の秋月藩領となり、寛永一三年(一六三六)の御内証替で福岡藩領に復した。「続風土記拾遺」は本村および箸操屋はくりや吉竹よしたけ・飛松の四集落をあげ、「地理全誌」は本村および水上みずかみの二集落とする。地内の福光は中世の福光名の遺称地とされる。明徳三年(一三九二)一二月一八日の筑前下座郡納帳目録(阿蘇家文書/南北朝遺文(九州編)六)に「福光名」とみえる。阿蘇あそ(現熊本県一の宮町)大宮司阿蘇氏の惣領家の所領と思われる福光名などでは同年検見が行われ、同名七町八反大の畠地の年貢は大豆五斗と定められている。


古江村
ふるえむら

[現在地名]岩舟町古江

北は上岡かみおか村・下岡村、東は安蘇あそ新里につさと村、西は同郡韮川にらかわ(現佐野市)。村の東を三杉みすぎ川が南流する。宝徳二年(一四五〇)五月三日の小野寺朝通言上状(小野寺文書)に古江郷とみえる。なお至徳四年(一三八七)小山若犬丸の蜂起に対し、六月一六日に島津政忠は「古枝山」に陣を張った(同年八月日「島津政忠軍忠状」島津文書)。「頼印大僧正行状絵詞」によると同三年五月二九日、若犬丸に対して木戸修理亮の兵が「フルウ山」に陣を張っている。いずれも当地に関係するか。

安蘇郡に属し、慶安郷帳では田四五三石余・畑二四五石余・山九石余、下総古河藩領。改革組合村では旗本高井・土岐の相給で以後幕末に至る。


古江村
ふるえむら

[現在地名]池田市古江町

木部きのべ村の北西にあり、ほそ郷の一村。村の南西側を猪名いな川が南東流し、村の南端で久安寺きゆうあんじ川と合流する。北部は山地で、南部に耕地が広がる。東部を能勢のせ街道が南北に通り、街道に沿って集落がある。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「古家村」とみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では細郷一千七四五石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕府領として続くが、文政一〇年(一八二七)より三卿の一橋領となり(川西市史)、幕末に至る。村高は寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳によると三四九石余。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(森家文書)によると、家数六八(うち寺一・道場一)・人数一六一、牛一二、溜池二、草苅野山一(六ヵ村立会)、村民の余業として木柴苅・木綿稼をし、池田や伊丹いたみ(現兵庫県伊丹市)の市場に売出した。


古江村
ふるえむら

[現在地名]内海町古江

田浦たのうら半島の基部にあり、近世草加部くさかべ郷の枝村。西は内海湾に東は坂手さかて湾に面する。苗羽のうまあしうらの小丘亀之尾かめのお山が突出して入江を形成する。明応九年(一五〇〇)正月の利貞名外田畠塩浜等日記(赤松家文書)に古江の地名がみえる。慶長一〇年(一六〇五)の検地では高九石余(小豆島全図)、延宝七年(一六七九)の検地で高三九石余・反別八町六反余(畑八町二反余・屋敷四反余)、鰯網一、一二〇石積廻船一(苗羽村誌)


古江村
ふるえむら

[現在地名]栖本町古江

東は宮田みやだ(現倉岳町)、西は湯船原ゆふねはら村に接する。南に八代海を望む稚児崎の下平ちござきのしもひら横穴式石室の古墳群がある。栖本氏の七代九郎通幸は古江姓を名乗り(「栖本氏系譜」栖本松尾氏蔵)、栖本氏は一時村内柱松はしらまつの丘に本城を置いたという。正保郷帳に村名がみえ、高二三一石二斗余とある。栖本組に属し、庄屋は永田家。万治二年(一六五九)石高半減により一九〇石一斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数三一・男女数三四八とある。文政(一八一八―三〇)頃は高一九九石七斗余(うち新田畑九石五斗余)、家数一二五・人数七七二。氏神は諏訪宮。八代海沿岸に立地しているが、「漁方稼無之」端浦であった(島鏡)


古江村
ふるえむら

[現在地名]勢和村古江

櫛田くしだ川が南流から北流に転じて丹生にゆうへ向かう地の南岸にある。北は櫛田川を越えて下出江しもいずえ村に対し、南は土屋つちや村、東は色太しきふと村、西は朝柄あさがら村に接する。文禄検地帳写(徳川林政史蔵)によれば地積は八町余、分米は一〇一石八斗余であり、田畑比は田の六町七反余に対して、畑は一町二反余。近世は和歌山藩田丸領。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数四七、人数二六三、牛一八、馬二を有した。


古江村
ふるえむら

[現在地名]中島町古江

羽咋はくい郡に属し、南流して熊木くまき川に合流する西谷内にしやち川西岸の段丘上に開けた村。北と東は西谷内村。正保郷帳では鳥越とりごえ村と一括して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二一七石、免四ツ二歩、小物成は山役四六匁・苦竹役一匁、鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。貞享元年(一六八四)の村々百姓持高帳(津梅文書)によれば高・免は同じで、百姓八・頭振一、家大工一・紺屋一。


古江村
ふるえむら

[現在地名]吾北村上八川上分かみやかわかみぶん 古江

津賀野谷つがのたに村の北東、田野々たのの村に続く上八川川上流の川沿いに集落がある。上八川村の枝村。天正一八年(一五九〇)の後山小川村地検帳に上八川内古江村として五九筆記されるが、切畑・山畑とともに水田もかなりある。また「ミソウシノ下」なる地には一筆で一町二反二〇代の屋敷地が記され、そのなかには三軒の屋敷が一括されており、一族や被官百姓を抱え込んでいる当時の様子がうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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