草津村(読み)くさつむら

日本歴史地名大系 「草津村」の解説

草津村
くさつむら

[現在地名]西区草津〈ひがし一―三丁目・ほん町・はま町・みなみ一―四丁目・梅が台うめがだい

東南が瀬戸内海に面するほかは、古江ふるえ村に囲まれ、山陽道沿いに人家が続く。「国郡志下調書出帳」に、「当村名往古神功皇后異国御攻伐之時、当浦ニ御船揃へ御陣備へ被為在候故を以軍津と相唱へ候由申伝へ」とあり、軍津いくさつに由来する村名という。古江村海蔵かいぞう寺の永正三年(一五〇六)の鐘銘に「佐西郡久曾津村」とみえ(古江村の「国郡志下調書出帳」)、「久曾津村」とも称しもとは古江村と一村であったらしい。「房顕覚書」同一二年の記事や、大永四年(一五二四)六月七日付の大内氏奉行人連署書状(山口県文書館蔵)に「草津」とみえる。

「房顕覚書」によれば、足利尊氏が筑前より上洛の途次厳島社に参籠したとき「造果七百貫、己斐、草津三ケ所ヲ被成御寄進ル」とあり、厳島神社領となったという。羽仁家家譜(「閥閲録」所収羽仁右衛門家文書)によれば、戦国時代には厳島社神領衆羽仁氏が草津城を拠点に現地を支配した。その後大内氏・陶氏の勢力が伸張し、天文二三年(一五五四)からは毛利氏の支配となった。毛利元就判物(「譜録」所収児玉与右衛門家文書)によれば、毛利氏の重臣児玉就方が「草津町」を支配し、町屋が形成されていたことなどがわかる。

近世は「国郡志下調書出帳」では「慶長御検地帳当村古江村一村ニ惣名草津村と有之」とみえ、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では草津村と古江村とが別村として記されているが、分村の時期は不詳。


草津村
くさつむら

[現在地名]八幡町草津

日向につこう川上流右岸の山間の村。上黒川かみくろかわ村の東にあり、東は升田ますだ村。寛永元年庄内高辻帳では高一四二石余。寛永九年(一六三二)荒瀬あらせ遊佐ゆざ両郷の農民二八〇人が出羽由利ゆり郡・仙北せんぼく郡に逃散したが、同一一年下野沢しものざわ(現遊佐町)の菅原次右衛門と上楸島かみぐみじま(現同上)の石川作左衛門は農民を連れ戻し草津新田など多くの新田を開発させた。翌一二年来次氏の家臣堀大膳の子兵助と作助は、洪水で潰地となった上藤塚新田の替地として、当村に四四石余の新田を開き堀兵助新田と称した(「家記」菅原文書)。正保五年(一六四八)の土目録(飽海郡誌)に高一四一石余、堀兵助新田四四石余とあり役料地であったが、堀兵助家断絶後村高に編入された。明暦二年(一六五六)の土目録(飽海郡誌)では高一八一石余。享和三年(一八〇三)には家数三二・人数一八三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


草津村
くさつむら

[現在地名]草津町草津

白根しらね山・本白根もとしらね山の東山麓、標高一一〇〇―一二〇〇メートルの草津高原にある。「くさづ」ともよばれる。高原の中心に草津温泉があり、源泉から流れ出す川は東方に流れて白砂しらすな川に合流し吾妻川に注ぐ。温泉は古くから知られ、文明一八年(一四八六)の「北国紀行」に「是より桟路を伝ひて、草津の温泉に二七日計入て」とみえる。真田氏に属して戦った湯本善太夫・三郎兵衛門は永禄六年(一五六三)一〇月、斎藤氏の拠る岩櫃いわびつ(現吾妻町)を没落させた。翌七年二月一五日、武田信玄より湯本小次郎(のち三郎右衛門)宛に「草津湯并沼尾廿五貫之所」返渡の朱印状(熊谷次郎氏所蔵文書)が出され、二月一七日には信玄は湯本善太夫に宛て湯本氏が以前から領有していた草津領を岩櫃城攻略の恩賞として安堵している(武田信玄判物写「加沢記」所収)


草津村
くさつむら

[現在地名]草津市草津一―四丁目・東草津ひがしくさつ一―四丁目・西草津にしくさつ一―二丁目・草津町

草津川伯母おば川の間に位置。東海道・中山道が合流する草津宿が置かれ賑った。天正一三年(一五八五)一〇月六日の細川忠興知行宛行状(草津市所蔵文書)によれば、草津のうち二〇石が宗作に宛行われている。文禄年間(一五九二―九六)当地・矢橋やばせ山寺やまでら渋川しぶかわ大路井おちのい蘆浦あしうら長束なつか手原てはら(現栗太郡栗東町)豊臣秀吉の蔵入地であったという(駒井日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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