大内氏(読み)おおうちうじ

改訂新版 世界大百科事典 「大内氏」の意味・わかりやすい解説

大内氏 (おおうちうじ)

中世の西中国の雄族。百済聖明王第3子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸,聖徳太子より大内県を采邑とし多々良の姓を賜ったと伝える。鉄製錬技術をもち半島から帰化した氏族であろう。12世紀中葉から周防在庁の有力者で盛房以来周防権介を世襲し大内介と称した。13世紀後半惣領家は在国司ほかの要職を,庶家の問田(といた)・右田(みぎた)・鷲頭(わしず)の諸家も在庁の要職を保持し,同時に鎌倉御家人で六波羅評定衆。南北朝初期には長弘が足利尊氏に従い周防守護となったが,観応の擾乱に際し弘世が直冬方となり鷲頭氏を屈服させ,ついで長門を掌中におさめ,1363年(正平18・貞治2)幕府方に転じて周防・長門両国の守護となり,また石見守護を帯した。71年(建徳2・応安4)九州探題今川貞世に協力のうえ帰国,出陣中の毛利元春領内に侵入して石見守護職を没収された。弘世の死後,義弘は周防・長門・豊前,弟満弘は石見の守護に任じた。義弘は明徳の乱に勝利の立役者となり山名氏旧領の和泉・紀伊の守護職を得,南北朝合体を成立させ,貞世失脚後は対外通交の実権を握ったが,応永の乱で敗死した。

 乱後,和泉・紀伊・石見・豊前を削られ,弘茂が周防・長門を安堵されて帰国すると,本国にあった盛見は鋭鋒豊後に避けたのち帰国して弘茂を滅ぼし,介入道道通(満弘の弟)をも倒したので,幕府も盛見の家督を認め周防・長門の守護職を安堵し,ついで筑前・豊前の守護職を与えて九州経営の重責を負わせた。盛見は1425年(応永32)九州の動乱を平定して以後多くその経営にあたったが,31年(永享3)筑前深江に戦死した。家中には家督に持盛と持世とをそれぞれ擁立する勢力が対立し争ったが,持世が勝利をおさめ家督をついだ。持世は芸石予の援軍の助けも得て大友・少弐を討ち平定したが,嘉吉の乱に重傷を負い没した。教弘は41年(嘉吉1)筑前に少弐教頼を討って九州を平定し,57年(長禄1)安芸の武田氏と戦い,64年(寛正5)伊予に渡って河野氏を助け翌年陣中に没した。政弘は同陣で細川方を圧倒して細川氏との対立を深め,応仁の乱には西軍の重鎮となり,77年(文明9)帰国すると九州に渡り少弐政資を破り,また幕府の六角討伐に参陣して中央での地位を高めた。義興は前将軍義稙を擁して1508年(永正5)上洛し,義稙を復職させて幕府の実権を握り,滞在10年,帰国すると安芸に出兵し24年(大永4)桜尾城を陥れた。その子義隆は32年(天文1)より少弐資元らを討って肥前に兵を進め,36年大宰大弐に任じ,ついで安芸に兵を進め毛利氏に援軍を送って郡山城攻囲の尼子詮久を潰走させ,厳島神主家および武田氏を滅ぼし,さらに毛利氏の協力を得て山名理興の神辺城を陥れ,義隆は周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前7ヵ国の守護を兼ね,西国随一の勢力を誇った。歴代朝鮮など対外通交につとめ,また学術工芸を奨励し,独特の山口文化の展開をみた。51年陶晴賢(すえはるかた)は義隆を弑してその甥義長を大友氏より迎立し実権を握ったが,毛利元就にそむかれ55年(弘治1)厳島に戦って敗死し(厳島の戦),義長も57年長府で自刃し大内氏は滅亡した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大内氏」の意味・わかりやすい解説

大内氏
おおうちうじ

中世中国地方の雄族。推古(すいこ)朝に百済(くだら)聖明王(せいめいおう)の第3子琳聖太子(りんしょうたいし)が周防国(すおうのくに)にやってきて、多々良(たたら)の姓を賜ったと伝える。鉄製錬技術をもち、朝鮮半島から渡来した氏族であろう。12世紀中ごろの周防国衙(こくが)での有力者で、盛房(もりふさ)以来周防権介(ごんのすけ)を世襲し大内介と称す。鎌倉時代には、一族で国衙在庁の多くを占め、現地支配機構を実質的に掌握した。また鎌倉御家人(ごけにん)でもあり、六波羅評定衆(ろくはらひょうじょうしゅう)にもなっている。弘世(ひろよ)は南北朝時代初期に西中国に勢力を拡張し、その本拠を大内村から山口に移すなど大内氏発展の基礎を築いた。その子義弘(よしひろ)はさらに勢力を拡張して周防、長門(ながと)、豊前(ぶぜん)、和泉(いずみ)、紀伊の5か国の守護となったが、1399年(応永6)に応永(おうえい)の乱を起こして敗死した。これによりその勢力は一時衰えたが、盛見(もりはる)以後、室町幕府の九州経略上の実力者として重きをなした。政弘(まさひろ)は応仁(おうにん)の乱において西軍の重鎮として戦い、さらに義興(よしおき)は管領代(かんれいだい)として幕政を掌握し、義隆(よしたか)は周防、長門、安芸(あき)、備後(びんご)、石見(いわみ)、豊前、筑前(ちくぜん)7か国の守護となり、西国随一の勢力を誇った。1551年(天文20)家臣陶晴賢(すえはるかた)は義隆を滅ぼし、その甥(おい)義長(よしなが)を擁立したが、1555年(弘治1)厳島(いつくしま)で毛利元就(もうりもとなり)と戦い敗死、1557年大内氏は滅亡した。大内氏は、朝鮮、中国との貿易を行うなど歴代対外通交に努めた。また学問、芸能を奨励し、ザビエルにキリスト教布教を許すなど独特の山口文化を展開した。なお室町・戦国時代に大内氏が逐次制定した分国法を大内家壁書(かべがき)(大内氏掟書(おきてがき))という。

[外園豊基]

『近藤清石編著『大内氏実録』(1885/再刊・1974・マツノ書店)』『御薗生翁甫著『大内氏史研究』(1959・山口県地方史学会大内氏史刊行会)』


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百科事典マイペディア 「大内氏」の意味・わかりやすい解説

大内氏【おおうちうじ】

南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。百済聖明(くだらせいめい)王の子孫と称し,聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。弘世(ひろよ)の時,足利氏に属し山口に本拠を置く。その子義弘は6ヵ国の守護を兼ねた。応永の乱で一時衰えたが再興し,日明貿易の独占で富強を誇る。義隆の時,家臣陶晴賢(すえはるかた)に滅ぼされた。→大内義弘大内義興大内家壁書
→関連項目安芸国足利義澄陰徳太平記月山城守護所吹田益田氏門司関山口[県]山口[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大内氏」の意味・わかりやすい解説

大内氏
おおうちうじ

姓は多々良氏で,百済聖明王の第3子琳聖太子の子孫という。代々周防権介を世襲したが,弘世のとき,足利氏に従って戦功を立て,山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は長門,石見,周防,豊前,和泉,紀伊の6ヵ国の守護となったが,山名時清らと応永の乱を起して敗死。政弘も周防,長門,豊前,筑前の守護として勢力を有し,応仁・文明の乱 (→応仁の乱 ) には西軍の主力として戦った。その子義興は永正5 (1508) 年足利義稙を将軍に復し,管領代となった。その子義隆は7ヵ国の守護として勢力をふるい,公家を保護し,対明貿易を行い,キリスト教布教を認めるなど,地方文化の発展に寄与したが,家臣陶 (すえ) 晴賢に襲われて自殺し,大内氏は滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大内氏」の解説

大内氏
おおうちし

中世,中国地方西部の大名。百済(くだら)聖明王の子琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫といい,多々良(たたら)氏を姓とする。平安末期以来の周防国の有力在庁官人。大内介を称し,鎌倉御家人として六波羅評定衆にも連なった。南北朝期,弘世は山口を本拠に西中国に勢力を伸ばし,発展の礎を築いた。子の義弘のとき,応永の乱で一時衰退したが,弟盛見(もりみ)が家運を再興。その孫政弘は応仁・文明の乱に活躍,子の義興(よしおき)は幕府管領代に,さらにその子義隆は7カ国守護となり,山口文化を興隆させた。1551年(天文20)義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれ,甥義長が擁立されたが,57年(弘治3)滅亡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大内氏」の解説

大内氏
おおうちし

南北朝・室町時代,中国地方西部の守護大名
古くから地方豪族として周防 (すおう) 国大内に住み大内氏を称す。14世紀,弘世は足利氏に従い功により山口を本拠に周防・長門 (ながと) ・石見 (いわみ) の守護,その子義弘は和泉国など3カ国を加えて6カ国の守護となる。応永の乱(1399)で一時勢力が衰えたが,家勢をもり返し,代々明・朝鮮貿易によって巨富を得る。義隆のとき7カ国の守護を兼ね城下町の山口は小京都と呼ばれるほど文化の興隆をみたが,1551年家臣陶晴賢 (すえはるかた) に殺され,のち滅亡した。

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防府市歴史用語集 「大内氏」の解説

大内氏

 周防国府[すおうこくふ]の役人で、もともと、多々良[たたら]氏と言います。鎌倉時代には御家人[ごけにん]となり、南北朝時代の大内弘世[おおうちひろよ]のときには山口一帯を支配します。最大で7カ国を支配するなど勢力を広げましたが、1555年、大内義隆[おおうちよしたか]が家臣の陶晴賢[すえはるかた]に討たれ、大内義長[おおうちよしなが]が後継ぎになりますが、毛利[もうり]氏によってほろぼされました。

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世界大百科事典(旧版)内の大内氏の言及

【安芸国】より

…71年(建徳2∥応安4)には,その前年九州探題を拝命した今川了俊が安芸守護となって下着し,毛利,熊谷,厳島神主等を従えて西下した。了俊は以後九州から守護権限に基づき所領の預置などを行ったが,同時にその下で大内氏が所領の預置・安堵などを行っている。74年(文中3∥応安7)以後,九州出陣中の毛利元春領内で,父親衡や元春の弟たちが弘世を語らい,吉田城など5ヵ所に要害を構え,元春の子息らと戦いを交えた。…

【石見国】より

…それは足利直冬が石見国を一重要拠点としたこととともに,上記のような在地構造のあり様とその変化に深く規定されていたと考えることができよう。1364年(正平19∥貞治3)大内弘世が石見国守護に任じられ,以後荒川・京極・山名などの諸氏が大内氏の間隙をぬって断続的に守護職に補任されることもあったが,その間にあっても大内氏による石見国支配は事実上維持されたと推定され,こうして石見国にあっては全体として大内氏による守護領国制支配が展開されることとなった。しかしその内実は,たとえば守護大内義弘が1380年(天授6∥康暦2)益田氏の所領に対する守護使不入を確約しなければならなかったように,在地勢力によって強く規定され,不安定で不徹底なものであることを免れることはできなかった。…

【勘合貿易】より

…のちには細川・大内2氏によって勘合の争奪がおこり,その結果1523年(大永3)両氏の使節が寧波(ニンポー)で衝突して争乱におよんだことがあった(寧波の乱)。その後勘合は大内氏の独占に帰し,同氏が滅亡するまで勘合船は大内氏によって派遣された。貿易の方法には,将軍から皇帝に対する献上品とそれに対する頒賜(回賜)という形でおこなわれる進貢貿易と,それに付随した公貿易と私貿易との3種があった。…

【国一揆】より

…1404年(応永11)9月23日安芸国人27氏33名は5ヵ条について契約した。南北朝後期に九州探題今川了俊が安芸守護職を兼帯したもとで,守護的地位を占め勢力を伸張したのは大内氏であった。大内義弘が応永の乱で敗死したあと弟盛見は周防・長門両国に拠って幕府に対抗したが,安芸国内の大内氏与党の領主層も新任の守護山名満氏に武力抵抗しつつ,みずからの所領没収の危機を感じて一揆に結集したのである。…

【郡代】より

…守護,戦国大名の領国支配機構は守護代の下に郡単位に郡代を置いている場合がある。比較的その実態が明らかな大内氏(周防,長門が本国で豊前,筑前をも領国とする),大内氏を滅ぼして防長両国を征服,支配した毛利氏を例に以下その特徴を指摘する。 大内氏領国の郡代の職務は,管郡内の寺社・給人へ大内氏の命令を伝達するとともに管内の諸種の事柄を大内氏に注進する,郡帳(郡支配の基礎になる土地台帳)を掌握して管内の下地を管理する,管内から諸役(段銭等の公役(くやく)や郡夫など)を徴収するとともにそれらを管理し,かつ用途に付する,在地に対して裁判権を行使することで,また筑前では郡代が城督(城奉行)を兼ねて軍事的機能をあわせ掌握している例もある。…

【周防国】より

…908年(延喜8)〈周防国玖珂郡玖珂郷戸籍〉(大津市石山寺所蔵)は国造後裔の周防凡直の戸をふくむ15戸の家族構成を伝えて貴重である。1137年(保延3)周防国庁宣に留守所がみえ,他方,在庁官人として大内氏の前身である多々良氏のほか,日置氏,矢田部氏,土師(はじ)氏賀陽(かや)氏,中原氏などが登場する。【八木 充】
【中世】

[平安末期の武士]
 大内氏については,平氏全盛のころ大内盛房など一族4名が東国に流され,1178年(治承2)召還されたことがわかるが,内乱期の動向は不明である。…

【瀬戸内海】より

…対朝鮮貿易者には内海各地の港湾の太守・代官や,海賊大将軍を名のった者が朝鮮側の記録に見える。対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。
[戦国期]
 戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年(弘治1)の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年(元亀2)能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年(天正10)来島氏が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。…

【筑前国】より

…しかし通交の活発化も一時的なものに終わり,23年には渋川義俊が少弐満貞に敗れ,肥前国に退去せざるをえなかった。没落した九州探題渋川氏にかわって進出してきたのが隣国豊前の守護でもあった周防の大内氏である。25年大内盛見(もりみ)は九州に下向し,少弐満貞を筑前から追った。…

【長門国】より

…厚東氏は59年長門へ上陸したが敗れてまた九州へもどった。しかし大内弘世が長門・周防守護補任を条件に63年(正平18∥貞治2)武家方にかわると,義武は宮方に降参,菊池氏と協力して大内氏に対抗し,64年長門守護として長門へもどった。しかし弘世の勢力は強く,義武は長門の一部を把握できたにすぎず,69年(正平24∥応安2)末ころには長門から追われた。…

【博多】より

…また渋川氏は,20年の朝鮮通信使宋希璟一行の博多滞在に際して,治安のために博多市街に門を作るなど,博多の都市整備にも尽力している。応永末年に渋川氏が没落すると,大内氏と少弐氏の間で博多支配をめぐる激しい抗争が続いた。15世紀中期には博多は大内教弘によって掌握され,大内氏はここを拠点として日明貿易にのりだした。…

【備後国】より

…90年(元中7∥明徳1)一族の氏清,満幸らに敗れた山名時熙(時義子)は備後に逃れ,山内通忠に信敷荘東方を与えて勢力の回復を策したが,新守護として四国から渡海した細川頼之に鎮定された。
[室町・戦国時代]
 応永の乱(1399)後,幕府は山名氏を大内氏とその与党討伐に当たらせる政策の一環として,1401年(応永8)山名常熙を備後守護に任じた。常熙は備北ではその被官山内氏との結びつきを強化し,中部以南では大田荘,小童保,国衙領を守護請(しゆごうけ)とした。…

【豊前国】より

…しかし今川貞世が75年(天授1∥永和1)に北朝方守護に任じられ,これに中国の大内義弘が協力するようになると,九州の北朝方がしだいに勢力を増した。そして80年(天授6∥康暦2)大内義弘が豊前守護になり,以後約115年間大内氏が豊前を支配した。その後約10年間大友氏が守護となるが,以後約50年間は大内氏が再び守護に任じられて豊前支配の主導権を握った。…

【毛利氏】より

…しかし25年再び大内方に転じ,29年(享禄2)芸石にまたがる高橋氏を滅ぼして遺領の領有を認められ,41年(天文10)尼子の大軍を敗走させ,ついで武田氏の金(銀)山(かなやま)城,伴城を陥れて佐東,安南で1000貫の地を与えられた。陶晴賢の大内義隆弑逆後も大内氏に協力しつつ備北の三吉,山内,江田の諸氏を傘下に入れたが,54年大内氏と絶ち,翌年厳島に陶晴賢を敗死させ,57年(弘治3)大内義長を滅ぼして周防,長門を手に入れた。58年(永禄1)石見の小笠原氏を降し,62年福屋氏を滅ぼし,同年山吹城の本城氏を降して石見銀山を手に入れ,66年富田(とだ)城の尼子義久父子を降し,67年伊予,ついで筑前に軍を進めた。…

【山名氏】より

…常熙は,応永の乱には幕府軍の主力として堺城に大内義弘を攻め,乱後は防長両国に拠って幕府に対抗する大内盛見とその与党である安芸,石見の国人領主層を制圧する役割を負い,1401年(応永8)に細川氏に代わって備後守護職を与えられる。翌02年に氏利が石見,03年には満氏が安芸守護職を与えられて一族で大内氏を包囲し,義弘の弟盛見を帰服させ,また大内氏与党の安芸国人一揆を制圧するなど実力を示した。永享年間(1429‐41)の大内氏の内部抗争には大内持世を援助し,大内氏とも緊密な関係を取り結び,山陰,山陽に形成した大領国を基盤にして幕閣に高い地位を確立した。…

※「大内氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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