日本歴史地名大系 「荏戸郷」の解説 荏戸郷えどごう 岐阜県:可児郡荏戸郷現可児郡御嵩(みたけ)町比衣(ひえ)・伏見(ふしみ)・上恵土(かみえど)、可児市中恵土・下恵土・川合(かわい)・今渡(いまわたり)一帯の可児川北岸に広がっていたとみられる。嘉禎四年(一二三八)七月二二日の官宣旨(春日神社文書)に「荏戸春近」とみえ、中村(なかむら)郷(現御嵩町中一帯)の西に境を接していた。そののち上・下の二郷に分れ、上郷は南北朝期には山城醍醐寺理性(りしよう)院仲尊から快季へと相伝されており、文和(一三五二―五六)・貞治年間(一三六二―六八)には幕府から安堵を受けている(寛正四年四月日「理性院宗済目安案」醍醐寺文書)。康暦元年(一三七九)四月一七日快季から「荏戸上郷」を譲与された理性院宗助は幕府より安堵を受け(「足利義満御教書」同文書)、応永一二年(一四〇五)九月二四日同郷は宗助から宗観に譲与された(「前大僧正宗助所領等譲状案」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by