一色村(読み)いしきむら

日本歴史地名大系 「一色村」の解説

一色村
いしきむら

[現在地名]一色町一色

矢作古(やはぎふる)川最下流の三角州上に位置し、赤羽根(あかばね)および味浜(あじはま)に続く微高地の海辺の村。村の中央を市子(いちご)川が流れる。一色の名は一色田が地名化したと思われ、足利氏の一族である足利公深は、一色に居住し一色氏を名乗った。「寛政重修諸家譜」に「清和源氏 義家流足利支流 左京大夫 入道足大夫流師 宮内卿律師一色阿闍梨 足利宮内少輔泰氏七男 母桜井判官代某女」とあり、初め三河国幡豆郡吉良(きら)庄に住し、これより一色氏を称し、のち下総国葛飾郡田宮庄幸手に城を築いた。一色氏はのち室町幕府の四職の一人となる。乾地(かんち)・下乾地の小字名が残っているが、弘安年間(一二七八―八八)一色氏が乾地に住み吉良庄の地頭職であったこと、安休(あんきゆう)寺の創立が南北朝時代の延文二年(一三五七)と伝えるなど断片的なものしか伝えられていない。

南北に細長く、住民は初め乾地・下乾地に住み、南の上屋敷(かみやしき)・中屋敷・下屋敷へ開拓を進めたと思われ、崇用(そうよう)寺が弘治元年(一五五五)乾地から中屋敷へ移転し、源北(げんほく)寺が享保八年(一七二三)上屋敷から下屋敷へ移転している事実がこれを物語る。


一色村
いしきむら

[現在地名]小山町一色

大胡田(おおごだ)村の西に位置し、村の北辺を佐野(さの)川が、南辺を立沢(たつざわ)川が東流する。緩やかな丘陵地帯を占め、村域は東西に細長く、村中央を湧水を水源にする只水(ただみず)の小川が東流している。佐野川とその支流海苔(のり)川に挟まれた字島土(しまど)は中世の城館跡といわれる。天正八年(一五八〇)五月七日、甲斐の武田勝頼は室伏内膳ら六名が敵地へ欠落した後の「名田・屋敷等」の管理や年貢の納入を竹之下(たけのした)の鈴木若狭守ら三名に命じている(「武田家朱印状」鈴木文書)。室伏系図(室伏家文書)などによると、内膳らは欠落以前当地に住居していたことが知られ、朱印状にみえる名田・屋敷も当地にあったと考えられる。

寛永一〇年(一六三三)相模小田原藩領、元禄一二年(一六九九)旗本大久保領(のちの相模荻野山中藩領)となり、宝永五年(一七〇八)幕府領に転じる。


一色村
いつしきむら

[現在地名]美浜町野間(のま)

伊勢湾に面し一色三郷といわれる本郷(ほんごう)・中(なか)新田・支邑若松(わかまつ)からなり、本郷はわずか東西三〇間ほどの小村で、天保の村絵図によると、柿並(かきなみ)村の西にあり、本郷・酉(とり)新田・中新田は一集落をなす。東に辰(たつ)新田と三(さん)ヶ一場(いちば)一色村控見取畑の飛地がある。

寛文年間(一六六一―七三)には堤防があり、安永年間(一七七二―八一)に工事が行われたが、その後も高波の被害を受けた。細目(ほそめ)村境の石猿尾(いしさろう)(防波堤)も四〇間あったものが今は二〇間余になったという(徇行記)。「寛文覚書」によれば、概高三三石余、田地三反五畝余・畑地一町五反歩、新田三石余、家数一四七、人口八二二。


一色村
いつしきむら

[現在地名]焼津市一色

田尻(たじり)村の西に位置し、北は木屋(きや)川を挟んで道原(どうばら)村、南は栃山(とちやま)川を境に惣右衛門(そうえもん)村。惣右衛門村の南東の駿河湾沿いに飛地がある。当村の浜にある「よりこ明神」とよばれる小祠が駿河・遠江の国境とされ(駿河記)、浜沿いの飛地の南は遠江国榛原(はいばら)郡下小杉(しもこすぎ)村(現大井川町)。観応二年(一三五一)九月八日の足利義詮御教書(天龍寺文書)に「田尻郷南村河原一色」とみえ、この河原一色は当地付近に比定される。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高七九九石余、田中藩領。


一色村
いつしきむら

[現在地名]浅羽町浅羽一色(あさばいつしき)

八幡(やわた)村の南に位置する。慶長九年(一六〇四)の一色村検地帳(浅羽一色自治会文書など)によれば上田一〇町余・中田五町余・下田一町六反余、上畑四町余・中畑一町八反余・下畑一町六反余。正保郷帳では横須賀藩領。田方一七一石余・畑方五九石余、中興(中光)寺領一石五斗。元禄一一年(一六九八)旗本菅谷領となり幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)。旧高旧領取調帳には浅羽一色村とある。


一色村
いつしきむら

[現在地名]二宮町一色・百合が丘(ゆりがおか)二―三丁目

北東に七国(ななくに)峠(一八二・八メートル)があり、中央を井(い)ノ口(くち)川(現葛川)、東を字杉(すぎ)ヶ入(いり)より湧出する打越(うちこし)川が並行して南へ流れる。東は西窪(にしのくぼ)村(現大磯町)、南は中里(なかざと)村、北・西は足柄上(あしがらかみ)郡井口(いのくち)村(現中井町)に接する。大山道が南より西北へ通る。丘陵地帯の村で、集落は井ノ口川両岸の山の斜面に点在する。正保国絵図に「一色」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛永一〇年(一六三三)幕府直轄領と旗本田沢・成瀬・鎌田領の四給、享保二年(一七一七)幕府直轄領と旗本田沢・成瀬・大久保・深谷領の五給。大磯宿の大助郷を勤め、元禄七年(一六九四)の助郷高七四〇石(「大磯宿助郷村高覚」県史九)。


一色村
いつしきむら

[現在地名]袋井市宇刈(うがり)

周知(すち)郡に所属。宇刈丘陵の谷間に位置し、南は下(しも)村。宇刈川上流域は中世宇刈郷のうち。江戸時代以降も上流より大日(だいにち)・中(なか)・三沢(みさわ)・馬(ま)ヶ谷(や)・一色・下・市場(いちば)の七村を宇刈七ヵ村と称し、また当村より上流の高平(たかひら)山東方の五村を大日谷五ヵ村ともいう(遠江国風土記伝)。村名は若宮八幡の神領「一織」に由来するという(掛川誌稿)。永禄八年(一五六五)一一月二八日の今川氏真判物(西楽寺文書)によれば、村松道化入道後家妙高尼から宇刈郷内西楽(さいらく)寺に郷内「一色村中道之上下」二段の地が寄進されていた。


一色村
いつしきむら

[現在地名]葉山町一色

西を相模湾に面する磯付きの村で、村内で浦賀(うらが)道・三崎(みさき)道が分岐する。東は浦賀道の滝(たき)ノ坂(さか)で上山口(かみやまぐち)村に続き、南は下山口(しもやまぐち)村、北は三(さん)ヶ岡(おか)山(大峰山)を隔てて堀内(ほりのうち)村。文化一三年(一八一六)堀内村から海岸を通っていた三崎道が崩壊したため、東の山中を通る道に付替えられたという(風土記稿)。「吾妻鏡」養和元年(一一八一)六月一九日条に「武衛為納涼逍遥、渡御三浦、(中略)上総権介広常者、依兼日仰、参会于佐賀岡浜」とあり、「佐賀岡」は当地の小字三ヶ岡に比定される。


一色村
いしきむら

[現在地名]藤岡町北一色(きたいしき)

現町域西端に位置する。集落は下・北・洞の三つの島からなる。村域には山神池・赤坂池・寺沢池・日焼池・寺池・蓮池の六つの溜池がある。縄文時代の山洞(やまぼら)遺跡・加美屋(かみや)遺跡がある。字川原(かわはら)と向谷下(むかいやげ)には宝篋印塔が各一基ずつ残る。北一色古窯跡群のある所は藤四(とうし)とよばれ、行基焼の創始者である藤四郎に由来するとみられる。

寛永一二年(一六三五)時には足助(あすけ)(現東加茂郡足助町)の成瀬氏上知領、元禄一〇年(一六九七)から一四年まで旗本沼間清芳領、正徳元年(一七一一)には吉田藩領、天保三年(一八三二)から幕府領、同一〇年再び吉田藩領となり、以後明治まで続く。


一色村
いつしきむら

[現在地名]久居市一色町

榊原(さかきばら)川の左岸にあって、中(なか)村の対岸にあたる。村の東は長野(ながの)川をもって境とするので、榊原・長野両河川に挟まれた形となっており、集落は本里(ほんざと)のほか東方長野川河岸に上垣内(かみがいと)がある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「一志郡七栗之内一色村」と記され、七栗(ななくり)郷のなかの一村として室町時代木造氏の支配下にあったと伝えられ、慶長六年(一六〇一)庄田(しようだ)村小浜弥十郎なる者の領地となり、元和五年(一六一九)小浜氏が和歌山藩に仕官したため、当村も同藩に編入されたという(久居市史)。


一色村
いつしきむら

[現在地名]津市一色町

安濃(あのう)川の中流、穴倉(あなくら)川との合流点の東岸の低平地に位置し、安濃川沿い北西に跡部(あとべ)村、東南に北河路(きたこうじ)村がある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「一色之郷」とある。この村名は荘園制の用語「一色田」に由来するとも、砂礫質の地をイシキとよんだのに基づくともいわれる。慶長一三年(一六〇八)以後は津藩領。それ以前から納所(のうそ)村の神宮(じんぐう)寺領のうち、高一六・六石を供進している(勢陽雑記)。慶安郷帳(明大刑博蔵)の高四四六・八一石、慶安元年(一六四八)の平高は五一二・〇一石で、寄人足五八人が課せられていた(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。山林を有しない一色村は、片田(かただ)郷の草山に入会をし、山年貢を支払っていたが、遠距離のため十分利用できないので、天和二年(一六八二)山組から脱退した(「片田立会山式法書」田中区有文書)。


一色村
いしきむら

[現在地名]長泉町南一色(みなみいしき)

愛鷹(あしたか)山の山裾に位置し、村の東辺と南辺を黄瀬(きせ)川が流れる。同川の対岸東方は水窪(みずくぼ)村(現裾野市)、同じく対岸南方は納米里(なめり)村。寛文一二年(一六七二)の検地帳(長泉町史)や国立史料館本元禄郷帳、また残存する年貢割付状(長泉町史)などによると寛文一二年・元禄八年(一六九五)は幕府領、その後旗本坂部広慶領となり、享保六年(一七二一)から安永六年(一七七七)まで旗本稲葉領であった。


一色村
いつしきむら

[現在地名]福田町一色

北は南田(みなみだ)村、西は浜部(はまべ)村(現磐田市)。鎌田(かまだ)御厨の一色田(年貢のみを国衙に納め、雑役は国衙から免除されて庄園領主の取分となる田)が地名化したと思われる。のち二宮(にのみや)庄於保(おほ)郷の一部となった。康和四年(一一〇二)一一月日の内宮禰宜等注進状案写(光明寺古文書)によれば、鎌田御厨の田が旱損にあうため、応徳年中(一〇八四―八七)に在国司に申請して堰溝(用水路)を掘通すことを認められた。しかし公領に住む田堵の賛成を得られなかったため、御厨の住人のみで二年に及び数十町余の堰溝を掘ったのち、一色田として開発したいと国司および朝廷に訴え認められた。


一色村
いつしきむら

[現在地名]浜松市中野町(なかのまち)

中野町村の北、天竜川右岸の堤防沿いに位置。豊田郡に属する。東海道の天竜川の渡船が中野町村と立野(たての)村長森(ながもり)(現豊田町)の間から、万治三年(一六六〇)頃に北方の富田(とみた)村と池田(いけだ)村(現豊田町)の間に移ったため、東海道が通ることとなった。松平忠頼領郷村帳では高七九石余、田二町二反余・畑八町四反余、うち川成二二石。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえる。


一色村
いしきむら

[現在地名]額田町一色

村域を東西に貫く大沼(おおぬま)道沿いに集落が立地。東は保久(ほつきゆう)村、西は柳(やなぎ)村(現岡崎市)、南は小丸(こまる)村(現岡崎市)・伊賀谷(いがや)村、北は北須山(きたすやま)村(現岡崎市)・外山(そとやま)村と各々山で接する。中世、下山(しもやま)庄に属したという。享和三年(一八〇三)浄宮寺御用郡村仮名付帳(上宮寺蔵文書)に「額田郡之内下山庄一色村 明円寺」とある。

天正一八年(一五九〇)に岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に岡崎藩領。


一色村
いつしきむら

[現在地名]下部町一色

常葉(ときわ)・市之瀬(いちのせ)両村の西、醍醐(だいご)山の北斜面と勝坂(かつさか)(かんざか)山地の南斜面および勝坂山地より流れ富士川に注ぐ一色川の沖積地に立地する。慶長古高帳に一色とみえ高九二石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高一七七石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数九一・人数三七九、馬八。醍醐山に御林山一ヵ所がある(甲斐国志)。鳩打(はとうち)峠を越えて常葉村へ出て東河内(ひがしかわうち)路に、また中坂(なかざか)峠を越えて上田原(かみたんばら)村経由で市川(いちかわ)(現市川大門町)・岩間(いわま)(現六郷町)方面へ至る道に連なり、西は宮木(みやき)村(現中富町)を経て富士川を渡船で飯富(いいとみ)村(現同上)へ渡り、駿州往還に結ぶ道が通る。


一色村
いつしきむら

[現在地名]鳳来町七郷一色(ななさといつしき)

北は池場(いけば)村・川合(かわい)村・名号(みようごう)村、東から南にかけて、相川(あいかわ)村・川宇連(かうれ)村・寺野(てらの)村(現静岡県)、西は巣山(すやま)村と接する。中央構造線が通っている複雑な山地に、六田沢(ろくたざわ)・六本松(ろつぽんまつ)・浅川(あさかわ)・上松(うえまつ)・黒沢(くろさわ)・大島(おおしま)の集落がある。

村内の黒沢田楽は鳳来寺田楽、田峯(だみね)田楽(現北設楽郡設楽町)とともに三河三田楽といわれる。黒沢七戸に、六田沢一戸が加わり、毎年一月六日に行われてきた。一時中断したが昭和二八年(一九五三)復活。田楽帳は文化一三年(一八一六)のものが最も古く、明治四四年(一九一一)のものまで六冊、宗家の荻野仙司氏宅に所蔵されている。


一色村
いつしきむら

[現在地名]名東区猪高(いたか)町一社(いつしや)・高社(たかやしろ)・亀の井(かめのい)

高針(たかばり)村の北にあたり、西は東山(ひがしやま)丘陵から続く高地で、東を前(まえ)川が流れる。寛文一一年(一六七一)の家数二一、人数一二一(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高二九〇石余のうち二六九石余が藩士五人の給知。田は一五町二反一畝余、畑は二町一反七畝余。風越(かざこし)山・大坂(おおさか)山・よし迫間(はざま)山などがあり、「寛文覚書」は松山一八町歩を記録している。享保一九年(一七三四)当村から鉱泉が湧出、湯場を取立てた(一色鉱泉記)。


一色村
いしきむら

[現在地名]加古川市平岡町一色(ひらおかちよういしき)・平岡町一色西(ひらおかちよういしきにし)・平岡町一色東(ひらおかちよういしきひがし)

坂井(さかい)村の東に位置する。イッシキともよぶ。永正一二年(一五一五)八月日と天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)に載る天満宮猿楽雑事帳によると、安養(あんよう)寺(現曹洞宗)は二反分(能米八合・白米四合)の負担をしている。同寺は慶長六年(一六〇一)寺領三石を与えられた(「若原右京亮宛行状」宝塔寺文書)。


一色村
いつしきむら

[現在地名]大垣市南一色町(みなみいつしきちよう)・宝和町(ほうわちよう)

杭瀬(くいせ)川左岸、大垣輪中の西部に位置し、南は木戸(きど)村。古くは若森(わかもり)郷に属したという(新撰美濃志)。一色の村名が各地にあることから、俗に木戸一色とも称した。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高四〇〇石余。正保郷帳では田高三八二石余・畑高一〇〇石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では一色村四五七石余・一色長九郎分八一石余。正保元年(一六四四)の家数三一、弘化三年(一八四六)の家数三五(新修大垣市史)。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、高四〇二石余、田一八町一反余・畑七町五反余、新田高一石余は田一反余・畑二七歩、家数三六・人数一七五、用水は菅野(すがの)川・杭瀬川より取水。


一色村
いつしきむら

[現在地名]荘川村一色

庄(しよう)川の支流一色川流域に開けた村。東は寺河戸(てらこうど)村、南は鷲(わし)ヶ岳を境に美濃国郡上(ぐじよう)郡、西は庄川を挟んで惣則(そうのり)村。ツガ峠は白川(しらかわ)郷と郡上郡を結ぶ重要な交通路であった。文明年中(一四六九―八七)一色左京大夫義直の一族一色式部義当が流浪して大野郡灘(なだ)郷(現高山市)に隠棲、のち当地に住みついたのが始まりという。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高九石余、田七反余・畑二町七反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割八分三厘、家数一三、うち百姓一〇・門屋三。一色の奥に牧(まき)ヶ野(の)・山田(さんでん)・赤崩(あかくずれ)の三集落があったが、天正一三年(一五八五)の白山大爆発の際の大地震で山崩れが起こり、埋没したと伝える。


一色村
いつしきむら

[現在地名]神戸町北一色(きたいしき)

末守(すえもり)村の北に位置し、安八郡の二つの一色の地のうち中世の平野(ひらの)庄に属したものを平野一色とよんだ(新撰美濃志)。年月日未詳の龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)に「五拾貫文 平野ノ一色」とみえる。慶長郷帳では「一しき村」とみえ、村高は一九一石余と九六二石余に分けて記されるが、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では九六二石余。正保郷帳では田高七五三石余・畑高九七石余。明治一四年(一八八一)の村明細帳によると村高八五〇石余(田七五三石余・畑九七石余)、家数一〇〇・人数四三三、馬三六、用水は菅生(すごう)川・久瀬(くぜ)川(杭瀬川)から取水し、用水圦樋六・留樋一・悪水落圦三などがあった。


一色村
いつしきむら

[現在地名]富士市一色

今泉(いまいずみ)村の北、愛鷹(あしたか)山の南西麓の丘陵に位置する。天文一八年(一五四九)一二月一三日付今川義元判物(浅川井出文書)によれば、義元は井出善三郎に「一色」ほかを安堵している。永禄四年(一五六一)閏三月一〇日今川氏真も、井出惣左衛門尉盛重の娘伊勢千代と結婚し、もし離別した場合には伊勢千代のものとするという条件付きで善三郎の息千熊に一色ほかの所領を安堵している(「今川氏真判物」同文書)。


一色村
いつしきむら

[現在地名]西伊豆町一色(いしき)

中(なか)村の北東、仁科(にしな)川中流域に位置する。寛文九年(一六六九)に仁科郷より分村した(掛川誌稿)。延享四年(一七四七)の名寄帳(伊豆南西海岸)には一色村・堀坂(ほりさか)村・岩谷(いわや)村(現岩谷戸)とみえ、これらは現在通称名として残る。はじめ幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本岩瀬領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では仁科と肩書されて村名がみえ高二四九石余。


一色村
いしきむら

[現在地名]南伊豆町一色

蝶(ちよう)ヶ野(の)村の西に位置する。北条氏所領役帳には本光院殿(北条為昌)衆の山本太郎左衛門の所領役高として七〇貫文「一色」とみえる。当地にあった三島明神の大永四年(一五二四)上梁文にも「地頭山本□□入道」とみえ(増訂豆州志稿)、当地と山本氏の関係がうかがえる。領主は延享四年(一七四七)まで入間(いるま)村と同じだが、文化八年(一八一一)旗本河原林(瓦林)領となり幕末に至る(韮山町史)。寛文一二年(一六七二)の高三九九石余(「伊豆国中高之寄」一橋大学文書)。


一色村
いつしきむら

[現在地名]棚倉町一色

福井(ふくい)村・玉野(たまの)村の北、社(やしろ)川南岸の平坦地に立地。江戸時代の領主の変遷は伊野上(いのかみ)村と同じ。正保郷帳では高一三〇石余、うち田九五石余・畑三五石余。元禄郷帳では高一四六石余、枝郷太夫内(たゆうち)村の高四五石。宝永二年(一七〇五)の村指出帳(棚倉町史)によれば家数三一(本家二六・栖在家五)、馬一四。用水は玉野堰を玉野村など四ヵ村と共同で利用した。天保七年(一八三六)の村指出帳(一色区有文書)では家数二七・人数一三八、馬二四。


一色村
いしきむら

[現在地名]鼎町一色

現鼎町の南西部、松(まつ)川の段丘上にある平坦な水田地帯。山(やま)村の須志角(すしかど)地籍で松川より取り入れた伊賀良井(いがらい)から、更に分水した名子熊井(なごくまい)が当村の水田を灌漑して、東の名子熊村に至る。名子熊井の開削に関する確かな文献史料はないが、室町時代中期に、伊賀良庄の地頭であった小笠原氏によって開削が行われ、それに伴って開田も行われたものと推測される。従って「一色」の地名は小笠原氏の一職支配、すなわち完全なる所領の意から生じたとする説(伊賀良村史)がある。

天正七年(一五七九)の上諏訪造宮帳の「山洞南方之郷」に含まれていたものと推定されるが、天正一九年の信州伊奈青表紙之縄帳(佐々木忠綱氏蔵)に、「一 中百五拾九石八斗九升六合 一色」とあるのが文献上の初見である。


一色村
いしきむら

[現在地名]落合町一色

関(せき)村の南にあり、南は栗原(くりはら)村。備中川および同川支流関川の流域に耕地が広がり、関川沿いに月田(つきだ)村(現勝山町)へ通じる里道が通る。慶長一九年(一六一四)の森忠政判物(福富文書)によれば、当村のうち七〇石などが福留弥兵に与えられている。正保郷帳では田高二七四石余・畑高二〇三石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高一一〇石余・開高三二石余。「作陽誌」では家数一〇二・人数四五八。津山藩森家断絶後の領主の変遷は日名(ひな)村に同じ。

八幡宮がある。「作陽誌」によれば後鳥羽上皇の皇子が当地で没したため、家臣の若田将監・林兵庫が皇子の霊を祀ったのが始まりといい、江戸時代は当村の氏神で、妙法(みようほう)寺が社僧を務めた。


一色村
いつしきむら

[現在地名]米原町一色

醒井(さめがい)村の北東に続く中山道沿いの村。もとは天野(あまの)川対岸の本郷(ほんごう)村(現山東町)の出郷であったという(江左三郡録)。寛永石高帳に村名がみえ、高二〇七石余で旗本近藤領。元禄一一年(一六九八)宮川藩領となり、以後幕末まで同藩領。村内の中山道に一里塚と高札場があった(分間延絵図)。村は田より畑が多く、用水は天野川より引く。農業のほか男は山稼、女は苧かせなどに従事していた(宿村大概帳)。天和三年(一六八三)初めて醒井宿の定助郷に指定され、助郷高二〇七石余。


一色村
いしきむら

[現在地名]三好町西一色(にしいしき)

現町域の南西部に位置し、境(さかい)川の東岸沿いにあり鎌倉街道が通る。溜池がなく、明治一八年(一八八五)の「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば「溜池ナクシテ境川ノ水ヲ引キ稲ヲ作ル所ニシテ少シク旱リセハ田畑共ニ旱損多シ」という。近世初めは岡崎藩領、宝暦一三年(一七六三)に幕府領、文政六年(一八二三)沼津藩領、天保二年(一八三一)西尾藩領となり明治維新に至る。


一色村
いつしきむら

[現在地名]旭町一色

矢作川の右岸にあり、支流阿妻(あづま)川に注ぐ一色川に沿う。東は浅谷(あざかい)村、南から西にかけて野原(のはら)村、北は現岐阜県恵那(えな)郡明智(あけち)町に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。慶長八年(一六〇三)明知(あけち)村(現明智町)に陣屋を置く旗本遠山利景の知行地となり明治に至る。天明四年(一七八四)の銘細書上帳(伊藤良平家文書)によると、高二〇石、反別二町六反歩余、うち上田三畝歩余・中田九反歩余・下田八反歩余、上畑一反歩余・下畑六反歩余。


一色村
いつしきむら

[現在地名]鈴鹿市林崎(はやざき)町

須賀(すか)村の東方、西林崎(にしはやざき)村に接してその西北部にある水口(みなくち)付近の集落。河曲郡平野の中央部で、周辺は条里制水田に囲まれ、北方には二の坪の地名もある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「九百弐拾八石弐斗壱升 西林崎之郷」とあり、西林崎村だけの村高は後世六二〇石余であるから、うち三〇〇石余の一色村の高を含んでいる。


一色村
いしきむら

[現在地名]羽島市上中町一色(かみなかちよういしき)

長間(ながま)村東部の南に位置する桑原(くわばら)輪中内の村で、長間一色村ともいう。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)に一色が二筆みえるが、一筆は当地のことであろう。文化七年(一八一〇)の村明細帳に、慶安二年(一六四九)平岡石見守の検地を受けたとあり、このとき長間村から分離独立したと推定される。元禄郷帳に村名がみえ、高八五石余、幕府領。


一色村
いつしきむら

[現在地名]伊勢市一色町

勢田(せた)川河口東岸にあり、西岸の神社(かみやしろ)村と向い合う。「五鈴遺響」に「食塩ヲ焼テ産業トス」と記されている。伊勢神宮領で寛永二〇年(一六四三)の内外宮領図(神宮文庫蔵)の裏書に「浜一郷一色村 一三四戸 四七九人」とある。伊勢猿楽三座の一、和屋(谷)家が居住し、能楽と能面・能衣裳を伝えている。


一色村
いつしきむら

[現在地名]一宮市千秋(ちあき)町一色(いしき)

穂積塚本(ほづみつかもと)村の西にあり、村の南を浅井(あざい)街道が通り、人家は村の中央に集中する(天保村絵図)。概高一〇七石余はすべて竹腰山城守の知行地。田一町四畝余・畑一一町九反三畝余、新田一石余。


一色村
いつしきむら

[現在地名]蒲郡市一色町

平地(ひらち)村・戸金(とがね)村の東隣にあたる。享保元年(一七一六)から旗本桑島家の知行所となって明治に至る。三河木綿の主産地は矢作川流域であったが、当村にも寛文七年(一六六七)の木綿田三割引帳(一色区有)と題する記録があって、当年の作付面積一町二反余、分米合計一三石余であったことが知られる。


一色村
いしきむら

[現在地名]一宮市一色町

北は新神戸(しんかんべ)村・宮後(みやうしろ)村、古(ふる)川を越して東南は一之宮(いちのみや)村である。概高二三〇石余のほか、新田七石余で、田方が三町四反余、畑方が一四町九反余の畑作の村である。「寛文覚書」に記す家数四一、人数二二二である。


一色村
いつしきむら

[現在地名]富津市一色

絹(きぬ)村の北東に位置する。天王面(てんのうめん)・諏訪面(すわめん)・貞観面(ていかんめん)などの地名がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五八石で、幕末まで変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ノーベルがスウェーデンアカデミーに寄付した遺産を基金とする世界的な賞。1901年以降行われ、毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和・経済学の6部門において、顕著な功績のあった人に授与される。...

ノーベル賞の用語解説を読む