御館の乱(読み)おたてのらん

百科事典マイペディア 「御館の乱」の意味・わかりやすい解説

御館の乱【おたてのらん】

1578年上杉謙信没後,その後継を謙信の養子上杉景勝(上田長尾氏の出身)と上杉景虎(相模小田原城主北条氏康の子)が争った戦乱。1580年に収束景勝は謙信没後すぐに越後春日山城(現新潟県上越市)の本丸実(み)城に入り,二ノ丸に居た景虎は御館(前関東管領上杉憲政の居館)に移って対峙する。初め謙信旗本衆の多くが支持した景虎が優勢。しかし北条氏政(景虎の兄)の要請で景虎救援に出兵した甲斐武田勝頼が景勝と和睦,その後は景勝が徐々に軍事的優位を確立。1579年仲裁を企図した上杉憲政が景勝の兵に殺され,景虎も小田原への脱出を試みたが,失敗して自刃。景虎方の国人は以後も抗戦したが,1580年に平定。勝利した景勝は上田衆を中心に家臣団を再編領国統治の基盤を確立。
→関連項目沼垂厩橋

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改訂新版 世界大百科事典 「御館の乱」の意味・わかりやすい解説

御館の乱 (おたてのらん)

1578-80年(天正6-8),越後国で起きた戦乱。1578年3月,越後の戦国大名上杉謙信が急死すると,その跡目をめぐって上杉景勝と上杉景虎の2派が抗争した。景勝は同国魚沼郡上田庄の長尾氏出身で,上田衆と呼ばれる旧臣らに擁立され,景虎は生家の北条氏政らの後援と蒲原郡三条の神余親綱,古志郡栃尾の本庄秀綱など謙信旗本の一部有力者に支持された。5月から戦闘が始まると春日山城による景勝に対抗して,景虎は前関東管領上杉憲政の居館“御館”にこもった。戦局は,上越国境から後北条軍が,信越国境から武田勝頼が進軍して景虎を支援したので,はじめ景虎方が有利のうちに展開したが,景勝が武田氏と和し,景信など景虎方有力者が相ついで戦没するとしだいに景勝方が優勢となった。とくに,国内の有力部将が優勢の景勝につくと景虎の孤立は決定的となり,調停の途上,上杉憲政が害されるに及んで80年3月,景虎は国外脱出をはかったが,景勝軍に追撃され自刃した。景虎の没後も,三条の神余氏,栃尾の本庄氏などは抗戦を続け,同年4月,この両者を滅ぼしてようやく景勝の越後での覇権が確立した。この戦乱で,謙信の領国はいったん崩壊したが,景勝家臣団が上田衆を中心に知行宛行(あてがい)を通じて主従制が強化され,再編が行われた。その意味では古志・蒲原勢力に代わって,魚沼上田衆を基盤とした新国主景勝権力の基礎が形成される糸口であったといえる。
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世界大百科事典(旧版)内の御館の乱の言及

【越後国】より

…養子景勝と同景虎の跡目争いという形ではあったが,景勝にはその出身地上田の諸士,景虎には謙信政権では主流であった古志・蒲原勢力が中心となって景勝方と抗争した。御館(おたて)の乱とよばれる両勢力の抗争は2年後には景勝側の勝利となって終わり,景勝は,執政に直江兼続を起用してしだいに権勢を強化したが,景勝政権もまた試練を強いられた。まず,北陸の一向一揆を追って北上した信長軍は,越中の越後境にまで軍を進め,信濃からとあいまって越後に圧迫を加えていた。…

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