菊池教中(読み)きくちきょうちゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「菊池教中」の意味・わかりやすい解説

菊池教中
きくちきょうちゅう
(1828―1862)

宇都宮出身の江戸豪商佐野屋、幕末勤王家。通称孝兵衛、字(あざな)は介石、介之介、澹如(たんじょ)と号す。「佐孝(さこう)」の2代目当主として際会したペリー来航(1853)後の商況不振と、また義兄で狂熱的攘夷(じょうい)論者大橋訥庵(おおはしとつあん)の影響によって、攘夷論者となって活躍した。彼は攘夷論者として外敵との戦争は必至であると考え、資本を保有するため、江戸から資本を引き揚げようとし、宇都宮領内に桑島(くわじま)、東岡本の両新田を開発した。そして、この2新田を基盤として、輪王寺宮(りんのうじのみや)を首領と仰ぎ日光山に挙兵をもくろんだが、実現することができなかった。そこで個人的テロ行動をとり倒姦(とうかん)の黒幕となった。坂下門外の変がこれである。そのため捕らえられ入牢(にゅうろう)となった。出牢したがまもなく死去した。

[秋本典夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊池教中」の解説

菊池教中 きくち-きょうちゅう

1828-1862 幕末の豪商,尊攘(そんじょう)運動家。
文政11年8月17日生まれ。菊池淡雅・民子の子。江戸の木綿問屋佐野屋孝兵衛の2代目。姉婿大橋訥庵(とつあん)の影響で攘夷(じょうい)論を信奉,外国との戦争にそなえて下野(しもつけ)宇都宮領内に新田を開発。安藤信正襲撃(坂下門外の変)の計画にくわわって捕らえられ,出獄まもない文久2年8月8日病死した。35歳。号は澹如(たんじょ)。

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367日誕生日大事典 「菊池教中」の解説

菊池教中 (きくちきょうちゅう)

生年月日:1828年8月17日
江戸時代末期の豪商;志士
1862年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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