日本歴史地名大系 「蒲萄鉱山跡」の解説
蒲萄鉱山跡
ぶどうこうざんあと
[現在地名]朝日村蒲萄
蒲萄集落の西方約一キロの蒲萄山(七九五・四メートル)東麓にある。元和年間(一六一五―二四)村上藩主堀直寄の頃開発された。元和六年二月二一日付の堀主膳宛堀直寄書状(新潟大学蔵)には「ふたう新金山」の普請を幕府に申入れ、樋設備の普請を命ぜられたとみえる。四月には金掘人夫五〇人ほどを集めることとなっている(同年四月二八日「堀直寄書状」同蔵)。しかし「ふとう鉛山」は当時衰退しつつあり、未進の山目は七千三〇〇貫目余に達していた(同年六月二一日「堀主膳等宛堀直寄書状」同蔵)。この未進を負った掘子を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報