朝日村(読み)あさひむら

日本歴史地名大系 「朝日村」の解説

朝日村
あさひむら

面積:一八六・六一平方キロ

飛騨高原の東部に位置する。東は高根たかね村に接し、北の丹生川にゆうかわ村との境に丸黒まるくろ(一九五六・三メートル)日影平ひかげだいら(一五九五・三メートル)、高山市との境に牛首うしくび(一四〇八メートル)が連なり、南東は御嶽おんたけ山の継子ままこ(二八五八・九メートル)が聳立し、南の益田ました小坂おさか町との境に法仙ほうせん(一七四五・六メートル)大平おおひら(一五九〇・九メートル)、西の久々野くぐの町との境には栃尾とちお(一三五一・四メートル)黒手くろて(一三一六・五メートル)高屹たかたわ(一三〇三・一メートル)ヶ岳(一一〇五・六メートル)などが連なる。


朝日村
あさひむら

面積:六二六・四〇平方キロ

岩船郡東部に位置し、北は同郡山北さんぽく町・山形県東田川ひがしたがわ郡朝日村、南・西は村上市、東は山形県西置賜にしおきたま小国おぐに町・西村山にしむらやま西川にしかわ町に接する。北の北俣きたまた(九七九メートル)大鳥屋おおとりや(九八九・二メートル)桝形ますがた(一三三〇・六メートル)、東の寒江かんこう(一六九四・九メートル)・西朝日岳(一八一三・七メートル)檜岩屋ひのきいわや(一二五二・五メートル)、南のたか(九一〇・九メートル)などの山に三方を囲まれ、この山々から流れ出る猿田さるた川・岩井又いわいまた沢・三面みおもて川・長津ながつ川・滝矢たきや川・こも川・高根たかね川・大須戸おおすど川などが村の北西端で合流し三面川となる。


朝日村
あさひむら

面積:五六六・五三平方キロ

郡の最南部、月山・湯殿山・朝日連峰の山麓に位置する。南は西村山郡西川にしかわ町・新潟県岩船いわふね郡、西は西田川郡温海あつみ町と鶴岡市、北は櫛引くしびき町、北東は羽黒町に接する。村域は、東西約二五キロ、南北に約三六キロの長方形で、山形県下の市町村では第二位の広さをもち、うち約九四パーセントが森林地帯。大鳥おおとり池を源とする大鳥川(赤川本流)が村の西部を北流し、東部を北流する梵字ぼんじ川と下名川しもながわ地区の落合おちあいで合流し、庄内平野の南半部を貫流する。


朝日村
あさひむら

[現在地名]和歌山市朝日

名草なくさ郡に属し、和田わだ川南岸、名草山の北東麓にある。南西は小丘を挟んで冬野ふゆの村。南部の小名薬師谷やくしだにには人家が一八、九軒あった(続風土記)。中世は和田庄に含まれ、元応二年(一三二〇)五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)に「朝日郷」とみえる。

慶長検地高目録では高一千二三〇石余、小物成五斗三升八合。吉原組に属し、同組大差出帳(和歌山大学蔵)によれば家数六二、人数三八一、牛一九、馬二、池一六、松山一、高一千二三一石一斗五升三合。このうちには枝郷出島でじま村の高一一八石八升も含まれる。新田畑の高三石二斗三升六合。文政二年(一八一九)の朝日村人別家数牛馬改帳(同大学蔵)によると、人数二六六人のうち出稼は、他国出稼一一人(男)・若山奉公稼一三人(男)・他郡他村稼百姓奉公二八人(男一二・女一六)


朝日村
あさいむら

[現在地名]夜須町朝日あさひ

中牟田なかむた村の北にあり、宝満ほうまん川と同川支流山家やまえ川に挟まれる。西は御笠みかさ下見したみ(現筑紫野市)。福岡御領郡村名附(九州大学附属図書館蔵)、「地理全誌」では朝日村と記してアサイと読み、「地理全誌」は古くは朝井と記したとする。近年まで地元ではアサイと読んだ。江戸時代は福岡藩領。「続風土記」によると枝村にふた村があり(天保郷帳など)、村内に高原たかわら村がある(続風土記)


朝日村
あさひむら

[現在地名]清洲町朝日

田中たなか村の北にある。西境を五条ごじよう川が流れている。猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書によれば、正安(一二九九―一三〇二)頃「朝日下郷」、嘉元元年(一三〇三)「朝日中郷」とみえる。この下郷・中郷は下之郷しものごう(現春日村)中之郷村(現西春町)のことであろう。下郷のしもを南とみれば、朝日村は下之郷の南に位置するから、中世には下郷のうちであったと考えられる。宝生ほうしよう(現名古屋市)蔵の「十住心論聞書」巻一・巻一〇の奥書に「尾州春日郡(ママ)朝日室寺」(応永一六年)とみえる。この室寺は浄土宗谷汲山むろ(現名古屋市)のことであろうか。

寛文一一年(一六七一)には家数四六、男一五四人・女一二二人(寛文覚書)


朝日村
あさひむら

[現在地名]和田山町朝日

和田わだ村の北にある。出石いずし川支流の奥山おくやま川の最上流域に点在する集落と、西床尾にしとこお山の南西麓に散在する朝日・堀場ほつぱ下戸しもとの集落からなる。もとは奥山村で出石藩領であったが、元禄九年(一六九六)小出氏が改易され、同一〇年松平氏が入封した際に山の尾根を境に、出石・養父やぶ両郡に二分され、出石郡側は高六五石余、養父郡側は朝日村と改称、高九八石余とし、矢根やね銀山(現但東町)付として生野代官所支配(幕府領)に組込まれたという(出石郡出石町の→奥山村。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では奥山として高一六三石余。但馬国高附郡訳手控(岡田家文書)では矢根組(出石郡)のうち奥山村として高九八石余と記されており、当地分と考えられる。


朝日村
あさひむら

[現在地名]川北町朝日

手取川下流北岸の扇状地に立地。伝えによると、みなと(現美川町)に上陸した木曾義仲が朝日の昇る対岸の地名を尋ねた際、朝日と答えたので村名になったという(川北村史)正保郷帳によれば高二〇五石余、田方六町七反余・畑方五町三反余、ほかに新田高二一四石余、田方一〇町五反余・畑方二町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千四〇石、免三ツ八歩、小物成は川役八〇目・川原役七四匁(三箇国高物成帳)


朝日村
あさひむら

[現在地名]越路町朝日

来迎寺らいこうじ村の西、越路原こしじはら丘陵のうちの朝日原あさひはら台地最北端山麓にある。正保国絵図に高一二一石余がみえる。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高一二八石三斗余のうち山高一石四斗余・漆高七斗余。ほかに高一一三石一斗余・高一石三斗余・高一九石余の新田三ヵ所がある。近世初めは高田藩領、天和元年幕府領、元禄一四年(一七〇一)下総国佐倉藩稲葉氏領、天明七年(一七八七)幕府領、寛政元年(一七八九)長岡藩領となり明治に至る。来迎寺集落の西北部に接する字来迎寺前に、寺屋敷てらやしきとよばれる常林じようりん寺跡地がある。


朝日村
あさひむら

[現在地名]和泉村朝日

九頭竜くずりゆう川と、その支流石徹白いとしろ川が合流する地にある。下流は角野かくの村、上流は河合かわい村。嘉暦四年(一三二九)一〇月の岩佐秀次寄進状(岐阜県郡上郡白鳥町石徹白家文書)に「かい佐羅村おきの名之内」を「朝日熊野の御神田」に寄進したことがみえる。なお「かい佐羅村」は当村の北、石徹白川右岸に位置する貝皿かいざら村のことである。また、永享一二年(一四四〇)四月日付の春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳(天理図書館蔵)に「朝日之代 平泉寺法印也 公文成報房注進」とあり、当時朝日に公文がおり、下穴馬しもあなまの中心であったと思われる。天正一二年(一五八四)四月一五日付の長勝ちようしよう(現大野市)への帰参連判状(長勝寺文書)に村名がみえる。


朝日村
あさひむら

[現在地名]氷見市朝日丘あさひがおか朝日本町あさひほんまち丸の内まるのうち幸町さいわいちよう

朝日山の裾野に広がり、南と東は南北に流れるみなと川に接する。北は朝日山麓にさえぎられた一帯。正保郷帳では高二七九石余、田方一六町一反余・畑方二町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三〇八石・免六ツ、小物成は山役三四匁、網役九匁(うち一匁出来)とある(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば、享保二年(一七一七)の検地引高八〇石があり、手上高は同一七年四石五斗、寛保二年二石五斗、明和八年(一七七一)五斗とあり、草高二三五石五斗・定免六ツ、ほかに宝永三年(一七〇六)の新開高三石余があり、定免五ツで、百姓六・頭振二〇。


朝日村
あさひむら

[現在地名]上川郡朝日町字中央ちゆうおう・字三栄さんえい・字登和里とわり・字岩尾内いわおない・字茂志利もしり・字南朝日みなみあさひ

昭和二四年(一九四九)八月、上川郡上士別かみしべつ村から分村して成立。分村申請書にみる戸数は九四一戸・五千五五一人(朝日町史)。分村区域は奥士別と総称されていたが、住民に好まれず上士別村より東にあり朝日が早く昇る村として名付けられた。同二九年九月、台風一五号による風倒木被害が発生。被害面積は約一万八千町歩(約一万七八〇〇ヘクタール)、被害材積は三九九万石(約七二万立方メートル)に及んだ(朝日町史)。虫害発生を防ぐため処理を迅速に行う必要があり、これを機に鋸で伐採し馬橇で搬出する冬山造材から、チェーンソーで伐採しブルドーザー等で搬出する夏山造材へと木材生産形態が一変した。


朝日村
あさひむら

[現在地名]神埼町大字城原じようばる字朝日

城原じようばる川西岸の山麓地帯に位置する。土器かわらけ山の東麓で、南は城原村に接する。対岸は仁比山にいやま村・小淵おぶち村。

朝日の地名はすでに鎌倉時代に使われていたと考えられる。すなわち大光だいこう寺(のちの安国あんこく寺)の創建が一三世紀末と考えられ、この時山号として朝日の文字が使われているからである。村内には安国寺や白角折おしどり神社など由緒深いものが残っている。山麓地帯であり米の生産高は少ない。正保絵図に村名がみえる。天保七年(一八三六)の御祓配帳(仁比山神社蔵)によると戸数は四四。


朝日村
あさひむら

[現在地名]富山市朝日

常願寺川左岸の低地にあり、北は川原毛かわらげ村。「越中志徴」が引く郷村名義抄によれば、射水いみず郡朝日村(現氷見市)から来た者が新開、村立てしたのが村名の由来という。正保郷帳では高一八一石余、田方一一町七反余・畑方三反、新田高四六石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一六石、免三ツ八歩、小物成は鱒役四匁・鮎川役一一匁、鮭役四匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。常願寺川の氾濫による天和三年(一六八三)一二三石、元禄八年(一六九五)八九石の検地引高などがあり、天保一一年(一八四〇)の打銀高一一八石余、免三ツ八歩(「高免帳」杉木家文書)


朝日村
あさひむら

[現在地名]春日町朝日

南はむかい(五六九メートル)、北は黒井くろい川を隔てて古河ふるかわ村。丹後への道が通る。大永三年(一五二三)の朝日村住人荻野氏交名注進状(荻野努家文書)に「朝日村」とみえる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高二一一石余・畠高三六石余。芝山あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領となり、国立史料館本元禄郷帳では旗本武田氏と亀山藩との相給。「丹波志」によると高二二九石余、今高は武田領一五〇石余、亀山藩領二四〇石(うち六〇石は石才村にあり)


朝日村
あさひむら

面積:七〇・三九平方キロ

東筑摩郡西南端の村で、西は波田はた町と木曾郡に接している。

古代この地に洗馬せば牧が置かれ、「小右記」に洗馬牧司の名がみえる。中世この地域は三村氏の所領であった。近世松本藩領となり、天正検地の際には現朝日村を構成する西洗馬にしせば針尾はりお小野沢おのざわ古見こみの四ヵ村は、それぞれ村高を記載され、元和三年(一六一七)高遠たかとお領となった。

明治七年(一八七四)西洗馬・小野沢・小野沢新田・針尾・古見の五ヵ村が合して山本やまもと村となったが、同一六年四ヵ村に分れたのち同二二年再度合併し、朝日村となった。


朝日村
あさひむら

[現在地名]隼人町朝日

国分郷うち村の南西、海岸部から北方十三塚原じゆうさんつかばる台地に向かう急坂に沿う高台にある。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)に田守寺田のうちとしてみえる「朝日寺三反 理検校兼順」は当村に関係するかと思われるが、明確ではない。江戸時代には日当山ひなたやま郷に属し、その飛地となっていた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では桑原くわはら郡で浅井あさい村とあり、高一一二石余。


朝日村
あさひむら

[現在地名]朝日町朝日

天王てんのう川が丹生山地より東流し平野部に出たところにある。西は福通ふくつう寺のある通称散財山さんざいやま。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では織田おた庄に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。同帳によれば田方三二五石余・畠方一七石、うち幸若知行所二六八石余。「越前国名蹟考」には幸若小八郎領九一石余・幸若八郎九郎領七六石余とある。初め福井藩領、元禄七年(一六九四)美濃国郡上藩領となる。

真言宗東寺派福通寺は群栄山長福ちようふく院と号し、本尊大日如来。朝日観音堂の別当寺であったが、現在は観音堂を合併し、本尊千手観音立像(県指定文化財)を本堂に安置する。


朝日村
あさひむら

[現在地名]瀬高町山門

つつみ村の東、清水きよみず山麓西方にある。享和三年(一八〇三)筑後国郡村仮名附帳には「アサイ」と訓を付している。天正(一五七三―九二)末年頃と推定される年月日不明の天満宮領筑後国所領注文断簡(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一七)に山門郡内として出る「朝井村十三町」は当地のことか。天正一五年八月二八日立花統虎(宗茂)は先祖の筋目たることによって池田長寿に「朝日村」五反を宛行っている(「立花統虎知行宛行状写」小野家文書)。文禄四年(一五九五)の知行方目録には「あさひ村」とあり、高四五九石余。


朝日村
あさひむら

[現在地名]金沢市加賀朝日町かがあさひまち

俵原たらわら村の南に位置。正保郷帳によれば高一九三石余、田方四町六反余・畑方八町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二〇四石、免六ツ一歩、小物成は山役二六二匁・漆役五匁・蝋役四匁・草野役一八匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数七・百姓数一二(高免付給人帳)


朝日村
あさひむら

[現在地名]上越市朝日

黒田くろだ村の南に位置。「頸城郡誌稿」に「当村ニ往古真言宗朝日寺ト云三千坊跡アリシ由申伝、屋敷跡只今柴山ニ御座候。養正寺ト申末寺有之由申伝、屋敷御田地ニ相成」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝日村」の意味・わかりやすい解説

朝日〔村〕
あさひ

長野県西部,松本盆地の南西端にある村。村名は旭 (あさひ) 将軍源義仲の伝承による。山地が多く,北東部の鎖川扇状地で米作のほか高冷地野菜の栽培が行われる。面積 70.62km2。人口 4279(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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