改訂新版 世界大百科事典 「蔭涼軒」の意味・わかりやすい解説
蔭涼軒 (いんりょうけん)
京都五山の一つである相国寺(しようこくじ)山内の塔頭(たつちゆう)鹿苑(ろくおん)院の南坊にあった寮舎。創建年は明らかでないが,将軍足利義満が鹿苑院内に設けた寮舎に,将軍義持が蔭涼軒なる名を付したものと思われる。1425年(応永32)相国寺炎上に際し,蔭涼軒も焼失したが,39年(永享11)将軍義教によって再建された。しかし,応仁の乱に再び焼失し,以後再建されなかった。蔭涼軒は将軍の小御所的なもので,軒主は将軍であったが,留守職として近侍の禅僧があてられた。彼は鹿苑僧録司に属し,将軍と僧録司の間にあって伝達披露の役割をつとめた。その最初の人物は仲方中正であったが,1435年季瓊真蘂(きけいしんずい)に代わると,真蘂は蔭涼軒主を僭称し,僧事全般の披露奉行を行うことにより,僧録司をしのぐ勢力を持つようになり,蔭涼職と呼ばれる官職名が生じた。蔭涼職は蔭涼軒が焼失してからも存続し,1615年(元和1)に至って鹿苑僧録司とともに廃された。
→蔭涼軒日録
執筆者:藤岡 大拙
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報