改訂新版 世界大百科事典 「季瓊真蘂」の意味・わかりやすい解説
季瓊真蘂 (きけいしんずい)
生没年:1401-69(応永8-文明1)
室町中期の臨済宗一山派の僧。相国寺雲頂院の叔英宗播(しゆくえいそうは)の法嗣。俗姓は播磨国赤松氏の一族上月氏。1435年(永享7)蔭涼(いんりよう)職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)に任じられる。41年赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱で俗縁によって退職,58年(長禄2)復任した。66年(文正1)伊勢貞親とともに斯波氏の内紛に介入するなど応仁の乱の一因を作って失脚,近江牛口山に退居した。68年(応仁2)足利義政の命に従って上洛する。季瓊の失脚後,75年(文明7)の益之宗箴(えきしそうしん)在任の明証があるまでの間,蔭涼職には範林周洪,承泰らが就任した。季瓊在任中の公務日記は《蔭涼軒日録》の初期の部分を成し,幕府と五山内部の動向を詳述する基本史料である。雲頂院内に雲沢軒を創め,京柳原七条に禅仏寺を開く。入寺せず公帖のみを受ける天竜寺坐公文となった。
執筆者:今泉 淑夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報