蕨城跡(読み)わらびじようあと

日本歴史地名大系 「蕨城跡」の解説

蕨城跡
わらびじようあと

享徳の乱中の長禄元年(一四五七)六月、室町幕府は渋川義鏡を武蔵国に派遣することを決定し、ついで将軍足利義政の弟政知を東国に下し堀越公方とした。義鏡は曾祖父義行が武蔵国司として蕨を居城とし、それ以降渋川氏が同地を知行していた関係で武蔵国に派遣されたという(鎌倉大草紙)。しかし両者が東国に下向したのは翌二年七月頃で、しかも義鏡が蕨城に入ったことを証する史料は知られていない。大永四年(一五二四)と推定される四月一日の足利高基書状(東京大学史料編纂所所蔵文書)には「蕨地利、北新、去廿日夜乗捕、門橋焼落令破却、江城へ納馬候」とみえ、北条氏綱が蕨城を攻め破却したとあるので、扇谷上杉朝興方は江戸城に続いて蕨城も攻略されたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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