北条氏綱(読み)ほうじょううじつな

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北条氏綱
ほうじょううじつな

[生]文明18(1486)
[没]天文10(1541).7.19. 小田原
戦国時代の大名。後北条氏2代目。宗瑞の子。号は春松院。法名は快翁宗活。永正 15 (1518) 年父の跡を継ぎ小田原城主。大永4 (24) 年1月 13日上杉朝興を攻めてこれを破り,江戸城を攻略。同6年 12月 15日鎌倉で里見実堯を破った。次いで天文6 (37) 年7月 15日上杉朝定と戦って松山城を攻略し,翌7年2月2日太田資正を武蔵岩槻城に攻め,相模,武蔵を掌握。同年 10月7日子の氏康とともに足利義明,里見義堯らを下総国府台に破って着々と関東南部を制圧し,後北条氏の基礎を固めた。

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百科事典マイペディアの解説

北条氏綱【ほうじょううじつな】

戦国時代の武将で,後北条氏の2代目。父早雲の後を継ぎ,江戸城に扇谷上杉氏を攻め,河越城を奪い武蔵に進出した。のち,上総,下総に勢力を持つ里見氏を破って南関東を平定した。早雲の時代,伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが,氏綱は相模の小田原城を本城化させ,小田原の繁栄に貢献した。1526年戦火により焼失した鎌倉鶴岡八幡宮の造営を行い,源頼朝以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導した。父早雲とともに,戦国大名後北条氏の基礎を固めた人物。1541年死去,享年55歳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条氏綱 ほうじょう-うじつな

1487-1541 戦国時代の武将。
長享元年生まれ。伊勢新九郎(北条早雲(そううん))の子。永正(えいしょう)15年,小田原城主北条氏2代となる。大永(たいえい)4年上杉朝興(ともおき)の江戸城を攻略し,このころ伊勢から北条と改姓。天文(てんぶん)6年武蔵(むさし)河越(かわごえ)城(埼玉県)をおとして武蔵をほぼ征服。7年足利義明を下総(しもうさ)国府台(こうのだい)(千葉県)にやぶり,南関東を勢力下におさめた。天文10年7月19日(一説に17日)死去。55歳。通称は新九郎。
【格言など】その者の役に立つ所を使い,役に立たぬ所を使わないのをよき大将という(家訓)

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条氏綱

没年:天文10.7.19(1541.8.10)
生年:長享1(1487)
戦国時代の武将。相模小田原城主。父は北条早雲(伊勢宗瑞),母は小笠原備前守の娘か。通称新九郎。初め伊勢を称し,のち北条に改めた。従五位下左京大夫。家督の継承は永正15(1518)年とみられるが,それと同時に虎の印判,調の印判を使用し始め,新しい支配体制の整備に着手。同17年には小田原周辺や鎌倉などで代替わり検地を実施している。大永4(1524)年1月,江戸城に 扇谷上杉朝興を攻めて河越城に敗走させ,武蔵への進出,制覇を開始した。朝興との抗争に際し朝興から「他国の凶徒」とののしられたことに対抗して,江戸城奪取前年の6月から9月の間に氏を伊勢から北条に改めた。鎌倉幕府の執権北条氏にちなむこの改姓は,相武(相模,武蔵)支配とその統治の正当性を主張するためのものとみられる。天文1(1532)年から鶴岡八幡宮の造営を開始。関白近衛稙家の姉(尚通の娘)を後添いとして迎えるのもこのころである。同6年初めの今川義元との戦い,同年7月の河越城攻略などを通じて武蔵をほぼ征服した。翌年の第1次国府台合戦では小弓(生実とも書く)御所足利義明を討滅し,勢力をさらに拡大。同8年には娘を古河公方足利晴氏に嫁がせ,関係をさらに深めている。同9年,鶴岡八幡宮が完成するが,この事業は領国の形成を促進し,その成功は氏綱の権勢を内外に誇示するものであった。同10年5月21日,5カ条からなる家訓を書き置く。いわゆる後北条氏を,名実ともに戦国大名に成長させた人物といえよう。

(佐脇栄智)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょううじつな【北条氏綱】

1487‐1541(長享1‐天文10)
戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1518年(永正15)に早雲から家督を譲られたとみられるが,同時に虎の印判等を使用し始め,新しい領国支配体制を整えている。20年小田原や鎌倉などで代替り検地を実施し,24年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め,川越城に敗走させて武蔵に進出した。この江戸城奪取後に,氏綱は伊勢を北条と改姓した。32年(天文1)には鎌倉の鶴岡八幡宮の造営を開始したが(40年に完成),このころ従五位下左京大夫に叙任され,また関白近衛稙家の姉を後添として迎えている。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょううじつな【北条氏綱】

1486~1541) 戦国時代の武将。早雲の子。上杉朝興・里見義弘・足利義明らを破り、後北条氏の南関東における支配権を確立。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条氏綱
ほうじょううじつな
(1486―1541)

関東の戦国大名、後北条(ごほうじょう)氏第2代。早雲(そううん)の子。家督相続は虎の印判状が使用され始めた1518年(永正15)とみられる。父の遺業を継ぎ、武蔵(むさし)方面へ領国の拡大を図った。24年(大永4)に上杉朝興(ともおき)を江戸城に攻略。そのころ伊勢(いせ)から北条に改姓し、上杉氏にかわって関東を支配しようとする意を内外に示した。32年(天文1)には焼失した鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の再建に着手し、8年後に大工事を完成させて、その力量を関東諸将や畿内(きない)に誇示した。この間、甲斐(かい)、駿河(するが)、下総(しもうさ)に兵を進め、37年朝興の子朝定(ともさだ)の武蔵河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)を攻略した。さらにその翌年には、小弓(おゆみ)御所足利義明(あしかがよしあき)と安房(あわ)の里見義堯(よしたか)の連合軍を下総国府台(こうのだい)(千葉県市川市)に破って、下総西部にまで勢力を拡大した。41年、義(ぎ)を専らに守るべきこと、父早雲のように倹約を守るべきことなど、基本的な心構えを記した5か条の置文(おきぶみ)を氏康(うじやす)に残して死去した。[池上裕子]

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世界大百科事典内の北条氏綱の言及

【上総国】より

… 室町時代の上総は犬懸上杉氏の本拠となり,上杉禅秀の乱後,1418‐19年(応永25‐26)には氏憲の遺臣榛谷重氏らが平三城(市原市平蔵),坂水城(不明,夷隅郡岬町か)に拠り一揆(上総本一揆)を起こしている。戦国時代に入ると,安房の里見氏が勢力をふるい,義尭(よしたか)のとき上総に進出し,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して1538年(天文7)北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。このころ義尭は久留里城(君津市久留里),義尭の子義弘は佐貫城(富津市佐貫)にいて南房総を分国とした。…

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。やがて駿河の興国寺城主となり,91年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。95年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。…

※「北条氏綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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