戸田村(読み)へたむら

日本歴史地名大系 「戸田村」の解説

戸田村
へたむら

[現在地名]徳山市大字戸田

夜市やじ川とその支流域に集落が点在し、北に飛松とんまつ(三六六・一メートル)、南に昇仙峰しようせんぼう(二六一メートル)がある。東は夜市、西は富海とのみ(現防府市)、北は湯野の各村に囲まれ、南は周防灘に面する。昇仙峰北側を山陽道が通り、その街道沿いに戸田市がある。萩藩領で都濃宰判に属したが、徳山藩領もあった。

永正一三年(一五一六)六月一日付の上司家文書に「国衙領安田保戸田令等保司職事」とみえる。また伊勢神宮の御師が守札の配布先を手控えた中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「へたの小中殿」とある。

「閥閲録」所収文書によれば、元亀三年(一五七二)に作間源三郎が毛利輝元から「防州都(濃)郡戸田之内拾弐石足」(作間四郎右衛門家文書)、天正一〇年(一五八二)には村上吉充が同じく輝元から「戸田之内三百石地」(村上太左衛門家文書)を領知されている。


戸田村
へだむら

[現在地名]浜坂町戸田藤尾ふじお

岸田きしだ川を挟んで二日市ふつかいち村の南西にあり、大庭おおば平野の中央部を占める。本郷の東方、辺地へつち村枝郷藤尾の南、久斗くと川支流亀谷かめんだん川の流域に位置する亀谷(現藤尾)は当村の飛地で、村中立会の入会山であった。なお岸田川は現在、当地付近で流路を北から北西に変え、当集落の東側を抜けて浜坂方面に向かっているが、昭和一二年(一九三七)に改修工事に着手する以前は、二日市方面に北流を続けて久斗川と合流していた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「へた」とみえ、当地には井上殿・中嶋殿・おむら(西村か)殿・嶋田二郎左衛門殿などが住していた。江戸時代の領主の変遷は芦屋あしや村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高二一一石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳に村名があり、高は古高に同じで、小物成として山手米八斗、桑手の綿七二匁が課せられていた。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高二八〇石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では村高は前出の古高に復している。


戸田村
とだむら

[現在地名]九戸村戸田

瀬月内せつきない川の上流域にあたり、西側は南北に連なる峰がせまり就志つくし森がある。全域が丘陵地帯で、瀬月内川に沿って耕地と集落がある。東は荷軽部にかるべ(現山形村)、北は山根さんね村、南は葛巻くずまき(現岩手郡葛巻町)、西は面岸おもぎし(現二戸郡一戸町)正保国絵図に斗田村とみえ高一四七石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では戸田村とみえ田九四石余・畑二一五石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田一一一石余・畑二五五石余。同八年の仮名付帳では枝村として倉野くらの村を記載。晴山はれやま(現軽米町)観音林かんのんばやしから葛巻村に至る道が縦貫し、瀬月内川に沿って戸田・倉野・高屋敷たかやしきを通る。


戸田村
とだむら

[現在地名]厚木市戸田

東を相模川が流れ、西・南は大神おおかみ(現平塚市)、北は酒井さかい村に接する。大住おおすみ郡に属する。大山道が村の中央を東から西へ抜け、八王子道は相模川に沿って南から北に通じている。

文和二年(一三五三)の関東管領畠山国清奉書写(県史三)によれば「相模国戸田郷内淵辺弥五郎跡」とみえ、観応三年(一三五二)四月二三日に足利基氏により鎌倉鶴岡八幡宮両界料所として寄進されている。応永三三年(一四二六)六月二五日一色持家書状(同書)には「相州富田郷」、弘治二年(一五五六)三月八日北条家朱印状写(同書)伊波知行之書立に「百九拾壱貫五百文 富田」、小田原衆所領役帳には伊波氏知行分として「三拾九貫六百文 中郡富田・小柳」とある。


戸田村
とだむら

[現在地名]甲西町戸田

清水しみず村・大師だいし村・宮沢みやざわ村の東、滝沢たきざわ川沿いに位置し、東は和泉いずみ村。「甲斐国志」に「本ト云富田」とあり、武田信虎に対抗した西郡の豪族大井氏の属城富田とだ城があったと伝える。「高白斎記」に大永元年(一五二一)九月一六日「富田落城」の記事があり、「塩山向嶽禅菴小年代記」にも同日「富田之城落居、(中略)同霜月廿三日酉刻於上条一戦、駿河衆背軍、福島一類打死、(中略)残衆籠富田而越年」とみえる。富田に籠って越年した駿河衆は同二年一月一四日、身命を請い、許されて帰国した(高白斎記)。富田城の所在地は不明。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「戸田実成寺」がみえ、屋敷一二〇坪の坪銭が免除されている。


戸田村
とだむら

[現在地名]山武町戸田

麻生あそう新田の北西にあり、さかい川が南東流する。永正年間(一五〇四―二一)と推定される三月二三日の輪覚書状写(井田家文書)に「田・中台之年貢之事、椎崎一世之間者、十五貫文可進置候」とあり、田は当地のことと思われ、輪覚(千葉勝胤)が当地などの年貢一五貫文を椎崎氏に与えるよう井田氏に命じている。「家忠日記」天正二〇年(一五九二)三月条に戸田之郷とみえ、高二六〇石余が松平家忠に与えられている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五三〇石。


戸田村
とだむら

[現在地名]福知山市字戸田

福知山盆地の中央部に位置し、由良川流域では川に最も接近した村。南方に石原いさ村、東北方川向うに私市きさいち村、西北方川向うに川北かわぎた村がある。

由良川は近世に全体的に北に偏して流れるようになったらしく、戸田村の東方には細長い河跡沼や水田地がある。この辺り一帯は自然堤防で、南方の広い水田よりはやや高く、古くから桑畑が多い。「丹波志」も「桑アリ」と記す。由良川が南方を流れていた時代のことであろうか、同書戸田村の項に「往古ハ何鹿郡私市ノ一村ノ出戸、川ノ北手ニアリ、洪水後、河南今ノ所ニ移」とある。

しかしその後も当村はしばしば洪水の被害を受け、例えば珍事箒集記(綾部市加藤家蔵)は嘉永元年(一八四八)八月一三日の洪水の記事に、「戸田村、家居多流、死亡の人多、是は格別水難の村なり」と記している。


戸田村
へだむら

面積:三四・九二平方キロ

伊豆半島北西部に位置する。西は駿河湾に面し、北は真城さなぎ(四九一・八メートル)をもって沼津市、東は達磨だるま(九八一・九メートル)をもって修善寺しゆぜんじ町・天城湯あまぎゆしま町、南は舟山ふなやま峠をもって土肥とい町と接する。井田いたの海岸部に松江すんごう古墳群が分布する。「和名抄」所載の那賀なか郡井田郷、「延喜式」神名帳に載る同郡「井タノ神社」「部多ヘタノ神社」「国玉クニタマノ命神社」が村内に比定される。平安時代末期から九条家領井田庄がみえる。戦国期には小田原北条氏の支配下にあった。近世には君沢くんたく郡に所属し、天保郷帳によると二村が含まれた。


戸田村
へだむら

[現在地名]戸田村戸田

伊豆半島北西部の入江を中心とした村で、西は駿河湾、北は井田いた村、南は小土肥おどい(現土肥町)、東は上修善寺かみしゆぜんじ(現修善寺町)。中世部田へだ郷の遺称地。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高七七七石余、元禄初年高帳では新田高三石余。江戸時代初頭は幕府領、文化九年(一八一二)一部が旗本小笠原領となった。幕府領分は文政五年(一八二二)に駿河沼津藩領となり、相給支配で幕末まで続く(韮山町史)。元禄七年(一六九四)三島代官五味豊法による検地があり高七八〇石余。うち田方三七町三反余・高五三八石余、畑方二九町八反余・高二四一石余。


戸田村
とだむら

[現在地名]益田市戸田町

海浜地帯で起伏のある丘が東西に続き、浜辺には防風の松林がある。東は喜阿弥きあみ村、南はなめら村、西は宮田みやだ村。文武天皇が柿本人麻呂の古里に賜わった封戸ふこ村が、のちに戸田村に改名したという(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高二三一石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二二〇石余(万手鑑)。正保国絵図では高三一三石余。津和野藩高津組六浦の一つ。東西に長い砂浜に恵まれ、製塩をし領内の需要に充てた。元文元年(一七三六)津和野藩内の塩浜五ヵ所・塩釜八七口のうち、戸田村・宮田村は塩浜二ヵ所・塩釜三四口で藩内第一位(益田市史)


戸田村
とだむら

[現在地名]清水町戸田・卸団地おろしだんち

久米田くまいでん村の南、さかい川の右岸に位置し、南は畑中はたけなか村。いずみ郷六ヵ村の一つ。地内には曹洞宗藤泉とうせん院や臨済宗法善ほうぜん(現廃寺)などの古刹がある。天文二一年(一五五二)二月二九日、今川義元は「泉郷之内戸田村藤泉院」に対し寺領を安堵し、諸役を免除している(「今川義元判物写」判物証文写)。同写には寺領等を修善院殿(俗名不詳)が開山積室儀香に寄進した旨が記されている。弘治二年(一五五六)一一月―永禄元年(一五五八)一一月頃の臨済寺・善得寺等諸塔頭・諸末寺帳(臨済寺文書)には今泉いまいずみ(現富士市)善得ぜんとく寺の末寺として「戸田法善寺 有御判、寺領田地一町九反、寺家敷地 門前五間棟別五間」とみえる。


戸田村
とだむら

[現在地名]守山市立田町たつたちよう

立花たちばな村の南西、野洲やす川南流右岸に位置。富田村・留田村とも記した。天元三年(九八〇)二月二日の某寺資財帳(金比羅宮文書)に「富田庄」とみえ、田一町・畠一町・山一二町山北とある。同庄を領したのは東大寺僧朝南により建立され、甥の印聖へと伝えられた寺であるが、寺名は不明。「蔭涼軒日録」文正元年(一四六六)三月一〇日条に夏阿弥知行の富田庄をめぐる争いについて裁定が下され落居したことがみえる。天文七年(一五三八)野洲川の氾濫により民家の多くが浸水したという(守山市史)。元亀三年(一五七二)三月一九日富田入道宗林・井口入道徳林らは金森かねがもり三宅みやけの一揆に加わらないことを誓う起請文(勝部神社文書)に署判を加えている。


戸田村
とだむら

[現在地名]いわき市四倉町戸田よつくらまちとだ

周囲を山に囲まれ、仁井田にいだ川が中央を流れ、東は四倉村、南は塩木しおき村・狐塚きつねづか村、西は長友ながとも村、北西は白岩しらいわ村。仁井田川右岸には条里遺構が存在する。富田とも記される。文永六年(一二六九)一二月九日の八幡宮鳥居造立配分状に「柱一本 番木一 片寄 衣谷 田富 富田 寄合可被取出」とみえ、飯野いいの八幡宮の鳥居造営の役を課されている。なお元久元年(一二〇四)九月一〇日の八幡宮領好島庄田地目録注進状写に戸田三郎の名がみえる。


戸田村
へたむら

[現在地名]大島町大字戸田・大字津海木つのうぎ

屋代やしろ島の南西部に位置し、東は出井いずい、北は屋代、北西部で横見よこみの各村と接し、南西は海に面する。南海上に同村の上荷内かみにない島・下荷内しもにない島がある。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳では横見と合石で記され、「地下上申」で初めて一村として記される。村名の由来は不詳であるが、戸田氏の名田の名残とも、「へた」は「端」で「へり」「はし」「はた」であり、屋代島の「はた」に位置することによるともいわれる。


戸田村
とだむら

[現在地名]大和町大字東山田ひがしやまだ上戸田かみとだ下戸田しもとだ

佐保川島そうこうじま郷の戸田村は、上戸田・下戸田と北野野口・戸田宿からなり、佐賀藩の小城おぎ支藩成立とその後の知行高の増加に伴って元和七年(一六二一)小城支藩領となった。

上戸田村は尼寺にいじと小城を結ぶ街道上に位置するので宿(中極町ちゆうごくまち)があり、高札場でもあった。正保絵図や天保郷帳には戸田村として上・下併せて記載されているが、もともと別の村で、神社も下戸田の天満宮(享保一七年銘の鳥居がある)、上戸田の天満宮(寛政四年銘の鳥居がある)と別個にあり、嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳にも、物成を上戸田村一七六石五斗四升、下戸田村二八五石八斗一升五合と記している。


戸田村
とだむら

[現在地名]関市戸田

長良川といま川に挟まれた川中島(保戸島)の北部の村。長良川は村の北側を西流し、西側を南流する。山県やまがた郡に属し、南は側島そばじま村・下白金しもしろかね保明ほうみよう組。慶長郷帳では村高一一六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では平岡頼資(徳野藩)領九四石余・幕府領八一石余の二給。正保郷帳では畑方一七五石余。承応二年(一六五三)徳野藩廃藩によりすべて幕府領となり、幕末に至る。文化一二年(一八一五)の村明細帳では高一三三石余、田五町余・畑一三町八反余、家数四八・人数二一〇、馬六。


戸田村
とだむら

[現在地名]中川区富田とみだ町戸田

北は服部はつとり村、東は春田はるた村に接し戸田川と福田ふくた川に囲まれる大村。古くは富田と書かれ、富田庄絵図(円覚寺蔵)にその名がみえる。寛文一一年(一六七一)の家数二三八、人数一千三〇一(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高二千二八六石余は一円蔵入地。田は一一三町一反一畝余、畑は一六町四反三畝余。「此村ハ農業ヲ専ラ生産トス、其内町通リニハ小商ヲスル家モ入交レリ、村長ハ只三四戸アリ、其内山田弾六ハ当所ニテノ富戸ニテ、高モ千石ホトモ所持ストナリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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