藤原庄
ふじわらのしよう
奈良興福寺寺務(別当)領。遺称地・比定地はともに不詳。古代郷の葛原郷が平安時代初期まで藤原郷とよばれていたことから、同郷域に庄域を比定する説があるが確証はない。延徳二年(一四九〇)に善通寺の法師が藤原郷の代官職を所望しているから(「大乗院寺社雑事記」同年三月七日条)、多度郡内かその近辺にあったことは推測できる。正治二年(一二〇〇)作とされる興福寺維摩会不足米餅等定案(興福寺文書)に「藤原庄讃岐国円座二十枚口二枚、硯二十面口二面」とあるが、成立時期などは不明である。元応元年(一三一九)の興福寺大垣修理には京南庄(現奈良市)と共同で半間分を負担している(文保三年記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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