朝日日本歴史人物事典 「藤原顕頼」の解説
藤原顕頼
生年:嘉保1(1094)
平安後期の公卿。鳥羽院の有力近臣。葉室家の祖権中納言藤原顕隆と越後守藤原季綱の娘の子。一説に母は美濃守源頼綱の娘。九条民部卿と号す。嘉承3(1108)年叙爵,同時に,白河院の有力院司であった父顕隆の意により出雲守となる。以後,丹後,丹波と受領を歴任,さらに中宮権大進,蔵人頭,弁官と要職を経る。天承1(1131)年,参議に昇り公卿の座に列し,以後右兵衛督・使庁別当を兼任。長承3(1134)年権中納言に昇る。保延5(1139)年大宰権帥を兼ね,永治1(1141)年,権中納言・大宰権帥を辞し,民部卿となる。久安4(1148)年病により出家,間もなく死去。『夕郎故実』に,鳥羽上皇に「無二の奉公を致す」と記されたごとく,鳥羽院政の基盤を支えた最重要人物のひとりで,受領として,あるいは 遠江,三河などの知行国主として得た豊富な財力で院のための御所・堂舎の造営に尽くした。その中のひとつ,九条坊門南・東洞院東に建立した興善院は,鳥羽院に寄進されて,安楽寿院の末寺となった。このとき顕頼が興善院に寄せた山城国の散在田が,拝師荘(福知山市)の基礎となる。九条北・東洞院東に邸宅を有し,『拾芥抄』の東京図には「顕頼卿堂」とみえる。また二条南・東洞院西にも邸宅を構えた。日記『九民記』の一部が,『東山御文庫記録』に収められている。<参考文献>橋本義彦『平安貴族社会の研究』
(上杉和彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報